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けふもまたしれぬあだなる命もて千年を照らす月をみるかな

はじめまして。ボート部1回生スタッフの青山天です。この夏に運転免許を取得したばかりで、今日(10/6)は運転の練習として、親に同乗してもらいナガスパ横の三井アウトレットパークまでドライブしました。来週は友達と一緒にナガスパに行きます。今日はコソ練でした。

これまでの同期のブログとは趣向の異なるブログを書きたいと思ったので、近頃僕が読んでいる『不道徳教育講座』を書いた作家、三島由紀夫について書きます。

ご存知のとおり、三島由紀夫は昭和の日本文学を代表する作家の一人であり、代表作は『潮騒』、『金閣寺』、『仮面の告白』などがあります。三島は、ボディビルで体を鍛えたり、映画に出演したり、写真のモデルになったりと、作品執筆以外にも活躍の場を広げた人物だったのですが、文学者のイメージからは遠くかけ離れた彼の生活に、人々は三島に対して、ドンファンやスキャンダルメーカーといったイメージを持っていたようです。このように特異な文学者であった三島ですが、晩年には政治的な傾向を強め、日本社会に大きな衝撃をもたらす大事件を起こします。

1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において、三島は自身が結成した民間防衛組織「楯の会」のメンバーとともに益田総監を人質に取り立てこもりました。そして、市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前へ集め「男一匹が命をかけて」演説をするも、野次やヘリコプターの騒音のために自衛官たちにはその言葉が十分に伝わらず、最終的に自刃して果てるという結果に終わりました。この事件は三島事件、あるいは楯の会事件と呼ばれます。

僕は、三島がこの演説で訴えたかったことを表す象徴的な言葉として「七生報國」(七度生まれ変わりて国に報いるの意)が挙げられると感じました。この言葉は、三島事件当日に三島がつけていた日の丸のハチマキに書かれていたものです。(三島の訴えの具体的な内容については、三島の声明文である「檄」全文をご覧になっていただければと思います)この事件は、三島が見てきた戦後日本の、国の大本を忘れ、魂が腐敗し、道義が頽廃してゆく姿を憂い、至純の魂を持つと信じていた自衛官たちに決起を呼びかけたものでした。

このブログのタイトルとなっている

“けふもまたしれぬあだなる命もて千年を照らす月をみるかな”

という歌は、三島事件が起こる6日前に三島が、親交のあった作家である村上一郎に宛てて送った手紙の中に記されたものです。この歌は、25歳という若さで自刃した幕末の尊王攘夷派の志士、久坂玄瑞が詠んだ

“けふもまた知られぬ露の命もて千年も照らす月を見るかな”

という歌を指していると思われ、今日明日さえも知らぬはかない命をもって美しい月を眺める心情が詠まれています。久坂玄瑞の思想や最期を三島のそれらと重ねて考えると、三島が自決に際しての心情を記すために引用したとも解釈できます。

三島事件に関してあれこれと脈絡なく書いてしまいましたが、締切も迫っているため後ろ髪を引かれる思いでこのまま強引に締めに向かいたいと思います。スミマセン。

結局、僕も三島のようになにか強い信念をもって生き、最期にはドラマチックな死を遂げたいと思いました。そういう人生がとても魅力的で美しいと感じるからです。(YouTubeに三島が生死について語る動画があります。タイトルは、人間は自分の為に生きて自分の為に死ぬほど強くはないのであります【三島由紀夫】、です)

そういえば、宗教学各論II(死生学)という授業の内容がとてもおもしろそうで楽しみです。

乱文失礼しました。最後まで読んでいただきありがとうございます。