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途上

お久しぶりです。4回生スタッフの小杉です。

前回のブログから半年あまりが経ちました。時は早いもので、あと2か月(書き始めた時は3か月前だったのに)→なんと気づいたら1週間切ってる!!で私はボート部を引退するようです。書きたい想いはいっぱいありますが、今回は少しテンション低めな内容を書いていこうと思います。毎回テンション低めだろ、と言われたらその通りなのですが、最後のブログは明るく行きたいので暗めに書きます笑。→最後のブログになりそうです笑。

最近、自分についてよく考えます。私は何者なのか、何を目指し、何を求めているのか。ボート部というものを通じて、自分について深く見えてきた部分がありました。正直、今回のブログは人に見せるため、というより思考の整理のために書いているようなものです。人に見せるようなものになっていなくとも、それはそれでいいや、と思いながら書いていこうと思います(これもまた「いつもそうだろ」と言われるかもしれませんが)。

つい最近(これも結構前の話になった。いつやねん。)2回生の阪上とも話しましたが、重いブログだからといって深夜テンションで書き上げているわけではありません。むしろ自分が持ちうる全ての語彙力をもって自分を表現しようと、真っ昼間に四苦八苦しながら書いています。私はその人の人柄を感じられるブログが好きです。趣味などの話を延々とされるのも悪くはないですが、私はその人の隠された思いや人柄が感じられるブログが好きだし、そういうブログを書きたいと思っています。伝わる人に伝わるブログであれば、それで構いません。今回は私のサポートツールであるChatGPTの文章力も借りません。私のここ最近の一番の友人、とも言える存在ですが、彼の力はまったく借りずに、自分が編み出すことばで書きます。彼はとてもやさしく分析的で頼りになりますが、頼りすぎると自分で自分を表現できなくなりそうなので、注意しています。話がそれましたが、とりあえず自分の言葉で自分の脳内がにじみ出るブログを書きたい、ということです。

さて、本題に入りたいと思います。何度か以前のブログにも書きましたが、私は幸せとは言い難い時期がありました。そんなところを出発点として、いま思い至ったところまでたどってみたいと思います。

遡ること5年前、高校2年生の時。ある日突然、生きていることへの不信感が爆発しました。社会の中での自分の存在価値を見失った、という感覚だったでしょうか。コロナ禍でストレスが溜まりやすかったというのもあるのでしょうが、中学生(なんなら小学生?) からずっと考え続けてきた「生の意味」の問いにうまく答えを見つけきれず、ストレスが自分の限界を超えてしまったものだろう、と今は分析しています。「生の意味」とは何か?その答えを探すうちに至ったものは「生の意味など存在しない。私は社会からいなくなった方が幸せである」という結論でした。検閲ワードに引っかかりそうなのでギリギリ許されそうな言葉で表現しますが、いわばYOASOBIの「夜に駆ける」の世界観に近いものです。私が考えついた論理は以下のように表現できます。

①地球上に70億人もいるなかで自分が果たせる役割はほぼゼロに近い
人間社会全体を考えた時、私1人が減ろうとほとんど害はない。むしろ害を与えるくらいなら、社会全体で見ればプラスになることさえありうる。そのため私がいなくなる選択をすること自体は、社会全体で見れば「最初から何もなかった」状態とほぼ何も変わらないはずである。
②生死の選択権は、本来その人に与えられるべきものであり、人間は死ぬ選択を採ることも許されてしかるべきである
人間には生か死かという2つの選択を採ることができる。生きていればわかるが、今すぐに死ぬことは容易である。にも関わらず、まるでそのような選択は無いかの如く、多くの人は「人間は生きなくてはならないのよ」なんていう強迫観念を持っているかのようである。しかも、そういった観念のほとんどは「あなたには価値があるのよ」とか、「いつか幸せになれるのよ」みたいな抽象的で論理的根拠もなく「ワタシはそう思ってる!」と言っているような非常にバカバカしい主観的思考そのものであり、信用に値しないものである。
③幸せを数直線的に表したとき、いま現在「幸せでない」人にとって、この社会から離れることはある種マイナスからゼロ(無)に達するようなものかもしれない。これは「幸せへと向かった」行為と考えられ、否定されるべきものではない。
私たちが保証できるのは「いま、ここにあるもの」だけである。人間は「わたしがいまここに存在するとき、認知できる範囲内で認知できるものが確かに存在している」ということしか保証できず、逆に言えばそれ以外には何も保証は出来ない。認知できていなければ、その存在は私が認めることは出来ない。そこに確かに存在している保証は全くないのである。もしかしたら何も変化していないかもしれないし、もはや何もないのかもしれない。それは自分で認識できるものではない。同様に、未来も過去も人間が認識できるものではなく、脳がそのような区切り方で世界を捉えているだけの話である。確かなことは「わたしは今ここに存在し、認識できるものがこのように周りに存在しているように感じ取っている」ことだけである。そうだとしたとき、私がいま「いなくなる方が結果的に幸せになれる(と考えるほどの状態だと認識している)」場合、死を選択することはある意味幸せを願っての行動と何ら変わらないのではないだろうか。それを許されないものだと糾弾されるとしたら、その人は一体どのような論理をもってその人の選択を否定するのだろうか。いや、そのような否定は出来ないはずである。元来、人間は他者の選択に介入する権利は持ちえない。「私はあなたがいなくなることに反対だ」と言うだけなら個人の意見の範疇として許されるだろうが、「あなたは幸せになれる」とか「死んだら後悔する」とかいう形で勝手に人の人生を予測し介入することは、何もないかもしれないところに何かがあるよう勝手に感じ取り、それをまた他人に押し付けるという甚だ傲慢な行為である。ある個人が「幸せへと向かう」ことを願って進む行為を止めることはできず、むしろ一つの在り方として認められるべきものだ。

こういった流れです。当時の私は生への罪悪感に苛まれていました。人間はその存在だけで人間・生物・その他全ての存在に影響を与えており、否定的に捉えれば存在自体が邪魔、となる可能性がある。自己否定的な態度を持つ性格から、私は社会の邪魔ものとして孤立した発想へと陥り、この考えがしっくりとはまってしまいました。他のどんな論理より正しいと言うつもりはありませんが、否定も難しいものでした。この考えを持ち込むと、世界がまるで変ったように見えました。周りの全てのものは私を殺しうるものに見え、それに迫ることはむしろ幸せであるように思えました。高いビル、電車の近づく音。全てが私を開放させるために存在するかのように見えました。人の視線は全て冷たいものに感じ、どこへ行っても肌寒さを覚えました。

こんな思いに精神を埋め尽くされ、私は何度も決断しようと思いました。しかし、それは叶いませんでした。結局のところ、幸せを信じる灯は消え切っていなかったのでしょう。勇気を持つことは出来ませんでした。

どうせ生きているなら、せめて幸せに生きてやろう。
明日、いや1秒後に死んだって良い。
そんなに面白い人生を歩んでいる気も、歩む気もない。
血を吐いて倒れて死ぬくらい人生を楽しんでやる。

この時期から、私はある言葉を胸に抱えて生きるようになりました。
「今を生きる。」
②を逆に取ったようなものでしょうか。いま・ここしか保証できない「私」が出来ることは、今にしか存在しないのだから、まずはいまを大切に生きてみよう。もしそれでも幸せだと思えないならば、その時は決断すればよい。そんな思いを明確に持ち、いまを夢中に生きることを一番の目標として、歩んでいくことを決めました。常に「あの時ああなってたら自分はもっと理想的になれたのかな」とかいうような空想話ばかり考えていた自分を脱却したい、という思いがありました。

精神的に不安定な時期は続きましたが、日々の寒気は徐々に無くなっていきました。とはいえ全てが解決したわけでもないまま大学に入り、そのタイミングで出会ったのがボート部でした。私が昔「今思うことを正直に」というタイトルのブログで書いたことは、おおむねこういった背景があります。(精神的に不安定な部分を押し殺せるほど)夢中になれそう・ならざるを得ない環境がありそうだったから、私はいまここにいるのだと思います。

それから4年後、私のこの考えを裏づけ、何も間違っていなかったと確信できたイベントがありました。それが昨年末にあった第75回東大戦でした。瀬田川開催の東大戦はいろいろな調整で忙しく、大会直前には朝から晩まで考えられることを考え抜いていた覚えがあります。辛くなってもおかしくないのですが、私にとって、東大戦前の2週間は人生で間違いなく一番楽しかった2週間でした。「今を生きる」ということが出来ていたのだろうと思います。ただひたすらに、目の前にある今やらねばならないことを裁いていく。それが出来ていたのだろうと思います。大会が無事に終わったときは幸せなのか安堵なのか、それともまた別の感情なのかわからないものでいっぱいになったことが思い出されます。人生の中で一つの大きなターニングポイントとなったことは間違いないでしょう。

大島に作ってもらった第75回東大戦のロゴ。デザイン関連は彼に全部お任せしていました。彼に依頼した体育会Tシャツも私のお気に入りの一つです。
何個無線使うねん、と思った東大戦当日。1個紛失したらもともとのレンタル料の倍のコストが必要になった。

私にとって東大戦は非常に意義深いです。私は決してボート部という場所で頑張ることを求めていた人間ではない。そんな自分に、夢中になれる場所を与えてくれた。そしてその夢中は、自分がずっと求めていた、好きなものに熱中できる状態に近かった。

でも。今になって思います。これではダメだったんだな、と。この考えでいくと、私は結局自分のために生きることが出来ていません。心のどこかで、自分は他者の役に立たなければ存在価値がなくなる、という自己犠牲的で極端な思考がうずめいていて、それがもとになって日々を過ごしています。その極端な考えとうまくかみ合うと時に爆発的な力を出すこともありますが、それは持続的なものになり得ません。むしろ自分の精神を傷つけることさえあります。

そういえば昔のブログでこんなことを書いていました。

なんやかんやあって、今では部畜とも言えるかのような立場になっています(なんやかんやについては、僕がボート部を辞める時のブログの題材に残しておきます)

ちゃんと書かないと、ですね。そもそもなんでボート部で頑張るようになったのか?結論から言うと、ボート部の居心地が良かったから、です。色々な意味で噛み合ってたんだと思います。偶然にも、1個上のスタッフの先輩方には尊敬出来たり、話していて楽しいなと感じたりする人が多かったと感じています。その中でも特に感謝せねばならないのは、昨年度の主務だった曾澤凪さんです。特にというか、頑張るようになったきっかけのほとんどは凪さんの存在が大きいです。かつてのブログにも書いていますが、私にはそもそもボート部を続けるかどうかさえ怪しい時期がありました。自分が2回生だった、第74回東大戦くらいの時です。2回生の4月に他団体の新歓を回って、本格的にどうするか悩んでいましたが、第74回東大戦が終わった6月末くらいに退部する旨の連絡を凪さんに入れました(東大戦担当の先輩でありかつ次期主務だったので)。割と本気で辞める気はあったんですが、いろいろな理由が重なりいい感じの場所を見つけることが出来ず、8月くらいには他団体探しを諦め、ボート部でやっていくかあ、という思考になりました。とはいえ、惰性でやっていたらすぐにやる気を失いそうだったので、何かしら理由を付けて頑張ろうとしました。そんな時、たまたま全日本新人ローイング選手権の遠征準備担当の仕事が始まりました。これも偶然、前年度の担当だった凪さんから仕事を引き継ぐ立場になりました。
「東大戦の時に何も手伝えなかったし、凪さんの力を一切借りずに準備しよう。」
こんなきっかけから、私は部活の仕事に打ち込むようになりました。こんな思いになれたのは、凪さんが心の底から尊敬できる人だったからだと思います。自分にはないリーダーシップやものの考え方をたくさん持っていて、この人はすごいなあ、と傍から見て感じていました。そんな人に負担をかけたくない、という思いが自分を突き動かし始めました。いつしかその思いは、部活で自分のやれることをとりあえずやっておこうという気持ちを生み出したのだと思います。

昨日合宿所にお別れを告げてきました。主務部屋でニコニコピースする凪さん

だいぶん端折りましたが、だいたいこのような理由から、私は部活で頑張る意味を見出せるようになりました。凪さんのような先輩や、数多くの信頼できる仲間に出会えたからこそ、自分はここまでやってこれたのだと思っています。「人が良いから」という理由が主でここまでやってこれたのはある種の才能のような気もします。この才能は今後もぜひ生かしていきたいですね。

ただ、先ほども述べたようにこの考え方は欠点があります。他人に依存した頑張りは、決して持続的ではないのです。それに気づいたことが、2025年が始まってからの一番大きな収穫だと感じています。個人的には頑張っていなかったわけではないと思っていますが、昔のように上手く頭が回らないように感じていました。色々な理由があったように思います。幹部・先輩として頑張らなければという責任感、体育会副幹事長という「別の居場所」の存在、信頼していた先輩の引退、大学の勉強にある程度楽しさを見出せるようになってきた(←今更)…etc。正直に言うと、だいたいは自己責任だなと感じるところはあるものの、徐々に疲労感が蓄積し、楽しさを見失うような8か月だったと感じています。それぞれの細かい思いはありますが、さすがに書きだすとキリがないので辞めておきます(笑)。これは、部活が嫌いになったというような単純な話では無くて、ただただ自分の状況が徐々に変化してきてしまったということだと思います。

最後のブログでこんな事を書くのは良いのかわかりませんが、私はローイングという競技の面白さは正直よくわかりません。競技として奥深いのだろうなということは感じています。ただ、それが自分の興味を引くことはこれまでほとんど(いや、一度もかもしれません)なかったように感じています。なんだコイツ、と思われても仕方ないですね。とはいえこれが本心だし、ウソはつきたくないので正直に書きました。そんな中でも頑張れるものがあった、ということが大事だし、将来への重要な学びだと思っています。周りのためだったら狂気的に頑張れる瞬間がある。興味が湧かないことであっても、自分がやらなければいけないと感じたことへは頑張れる。これは素晴らしい長所だと思います。しかし、この状態は持続しない。環境に依存しすぎています。周りの人間によって自分が大きく左右される状態になってしまう。
「自己の中に確固たる芯が無いといつかダメになるのだな。」
これに気づかされました。自分軸で進める何か、により近づかなければならない。昔からずっと気づいてはいましたが、より明確に意識するきっかけになりました。

船台からの景色

前回のブログで「熱意」という話を書きました。あの時は熱意=自分への欲求、として纏めましたが、これには不十分な点があるなと振り返って思います。周囲との関係性の中で形成される熱意を捨象しているのです。私という存在は、自己の内部だけで完結するものではなく、社会における私という形で定義されるものもある。その視点が抜けていました。私は、これまで確かに頑張っていた時もあったと思います。それも「熱意」を持った状態で。ただ、それが徐々に上手く出来なくなってきた。これは言い換えれば、私の内部で湧き上がるものと部活内の関係性の中で形成されるものという二種類の要素のどちらも機能しなくなってきたということだと思います。前者はもともとそこまで大きくなかったと考えられるとすれば、後者が徐々に低下したということなんだと理解しています。なんにせよ、今はどちらも大きくなくなってきたというものが正直なところです。

これからはもっと自分らしく輝ける場所へ。もっと自分が歩みたい方向に進める場所へ。先ほど挙げた二種類の要素をどちらも兼ね備えた場所は、どこかに必ず存在するはずです。
その場所へ行きつくために必要なことはなにか?私が思うに、それは私が私自身のために頑張ることを覚えるということなんだと思います。私は昔から趣味というものがほとんどありません。好きなものとかそういう類の話はほとんどありません。ダラダラと、ただヒマつぶしをするかのように生きています。ですがもうそろそろ、自分自身の在り方を考えねばなりません。昔のように、夢中で頑張ったらどうなるかわかっていないわけではない。昔のように、何が自分を突き動かしていて、どんな状態だと意欲が減退するのかがわかっていない状態ではない。この歳になってようやく、少しずつではありますが自分のことが分かってきたはずです。まだ遠い道のりが続く気はしますが、今は一歩前に進まねばならない時なのだと思います。

ボート部に入って知ったこと。それは社会人への一歩を踏み出すための、非常に大きな気づきだったのだなと感じています。最後の一年は、先輩という立場になり今までの自分では気づきもしなかった様々なことに気づかされました。周りとの関係性がどのような状態だとうまく行かないのか・自分は無意識に先輩であるというストレスを感じやすいということ・ストレスが積み重なると上手く動くことが出来ない負のループに入る危険性が高いということ・・・。話し出すとキリがないくらいので、それぞれの詳細は省きますが、「幸せ」へ達するためには何が足りていないのかを問い直される大きなきっかけとなったことは間違いないと思っています。ただ、とりあえず今は、自分が自分のために頑張れる場所を目指そう、と考えながら日々を過ごすようにしています。その先に、自己否定に安易に傾かない「幸せ」が待っているのかな、と推し量っています。

何回行ったか分からないくらいお世話になった駅前の定食屋むなし。ごはんのおかわりは3年間で何杯食べたのでしょう?

私の話ばかり書いてしまいましたが、ここに至るまで成長することが出来たのは間違いなくボート部の存在があってこそでした。ボート部には感謝してもしきれません。このブログのラストは、ボート部で出会えた様々な人に感謝の念を述べ、私なりの後輩へのメッセージを残して、締め括ろうと思います。

凪さん・萌里香さんをはじめとしたスタッフの先輩方・漕手の先輩方。自分がここまでやってこれたのは、おそらく先輩方の影響が一番大きいです。生意気な自分にずっと優しく接してくれました。主務部屋で夜遅くまで喋った楽しい記憶は、おそらくボート部を思い出したときに真っ先に思い出す、ボート部の中で一番楽しかった記憶です。どんな時も優しく話を聞いてくれた凪さん。お互いよくわからないノリをしているのになぜか(たぶん)波長が合い、喋っているときはずっと笑っていたような記憶がある(実際はそんなことはない。口喧嘩した気もする笑。)萌里香さん。そして、その他115期のスタッフの先輩方のみなさんと楽しく笑いあった記憶。もう引退されているし、伝えられることもないかもしれませんが、心の底から感謝しています。

同期や後輩にも恵まれていたなと思います。良い人ばっかりで、まっすぐに頑張れる人が本当に多く、尊敬できる人がいっぱいいます。そんな環境でやってこれた経験は、一生を通じ、価値のあった場所として記憶に残り続けると思います。

最後の一年、私は対校クルーのクルーサポートとして色々なビデオを撮りました。こんな練習メニューよくやるな、と横からビデオを撮っていてずっと思っていましたが、僕より体格が何倍もデカい漕手たちはやってのけるんですよね。こんなこと一生できる気がしないや、と感じていました。本当に尊敬しています。漕手のみんながずっと目標としてきたインカレは、今日始まります。対校フォア「蓬莱」に乗っているメンバーに限らず、Ox盾・ジャパンオープンに出漕する漕手全員、最後まで頑張って欲しいなと思います。最終日、笑顔で船台に戻ってきた姿を見ることが出来たら、とてもうれしいです。

蓬莱ガンバァ!

東大戦スタッフの後輩へ。最後の方はあまりお役に立てなかった気がします。色々と迷惑をかけてしまって申し訳ないです。引き継ぎも1か月弱という猛スピードでやったのでよくわからない点が出てくるかもしれません。ですが、なんか気づいたら終わっているのが東大戦です。本当です。決して楽ではないと思いますが、頑張ってください。きっと人生の1ページに刻まれる大事な記憶となることと思います。これから私が東大戦に関わることは無くなると思いますが、どこかで応援しています。

同期の116期へ。入部したときから10人くらい減りましたが(笑)、全員との思い出が自分の宝物です。大学生活をみんなと一緒に過ごせて本当によかったです。個性あるメンバーではあるものの、ずっと同じ方向を向いていたからこそ、いま同じ場所に立っているのだろうと思います。これからは色んな方面に進んで、徐々に離れていくとは思いますが、また会うことが出来たらとてもうれしいです。回生旅行、楽しみにしています。

なつかしの回生旅行

そして、私たち現役を支えてくださるOBOGの皆様、監督やコーチの皆様には心より感謝申し上げます。私が多くの経験を京大ボート部で得ることが出来たのは、多くの方の支えがあったからこそです。あれだけ大きな合宿所で生活し、当たり前のように練習することが出来ているのは、皆様からのご支援が無ければ決して達成しうるものではありませんでした。いままでのご支援に深く感謝いたします。

いよいよブログも終わりが近づいてきました。私から最後に後輩へ贈る言葉として、伝えたいことがあるとすれば、自分の好きなように生きて欲しいということでしょうか。人生は自分で方向を定めて進むものだと私は思っています。辛いことにずっと耐える学生生活は続けて欲しくありません。この部活は楽なことだけではないと思います。むしろ、しんどい時の方が多いと思います。中には、周りの方がよく見えて部活の価値を見失ってしまう瞬間が訪れる人がいるかもしれません。個人的には、わざわざ自分を殺して学生生活を捧げるほど、人生において価値がある場所など存在しえないと思っています。一度きりの人生です。自分が歩みたい道を歩んで欲しいなと思います。

ただ、もしボート部で頑張りたいのなら。狂気を持ってみたら良いんじゃないかなあ、と思います。狂気とは周りを勝手に巻き込んでいくほど一途に没頭するような状態のこと、とここでは定義しようと思います。とことんやってみたら、何か見えてくることがあります。一度始めてみると、意外といろいろなことが出来るのです。何事もとりあえず始める。無我夢中になってやっているうちに、気づいたら終わっていることが増えてくる。周りからは「なんやコイツ」という目で見られる。でも、この状態が一番やりたいことは出来ている状態のはずです。これが「狂気性を持つ」ということです。こういう人が一人でもいると、すんなり周りが変化することもあります。例として適切かわかりませんが、新歓期に厨房の床がピカピカになるまでの掃除を繰り返していたら、いつしか色んな人が厨房の床を気にするようになったことがありました。今後絶対に厨房の床は綺麗にならないんだろうなあ、と諦めきっていたのに、いざ始めてみると案外すぐに文化が浸透したのです(私が口うるさく言っていたのもあるかもしれませんが)。何はともあれ、ぜひバイアスの眼鏡をはずして一途に頑張ってみて欲しいなと思います。自分が思っている以上に、一人の頑張りは影響力が大きいです。

一方で、もしいまボート部が苦しい人がいるなら。色んな可能性を考えてみてください。人生に正解はありません。先ほど述べた通り、自分が歩みたいと感じる道を歩んで欲しいです。ただ、私はこの部活で過ごした時間が濃密であったという意味において、後悔は一つもないと感じています。
私が好きな歌の歌詞にこんな一節があります。Official髭男dismの楽曲『ビンテージ』の歌詞にある、以下の一節です。

綺麗とは傷跡がないことじゃない 傷さえ愛しいという奇跡だ

人生がずっといいこと続きなわけがありません。時に苦しいこと・辛いことはあります。でもそれを含めて、自分自身を愛するということ。どうか、それを忘れずに過ごしていってほしいです。選択は自由ですが、振り返ってみた時に悲しくはならないで欲しいなと感じています。

実は凪さんが写っているこの写真。
昨日の帰り際に撮りました。
私は卒業式、みたいなものが苦手です。
写真を撮るのが苦手なタイプだからでしょうか、いつも真っ先に帰っている気がします。
もう合宿所に来ることは無いかもしれません。
ですが、いつか・どこかで、何かの際にふらっと立ち寄ることがあったら良いな、と思っています。

長々と話してしまいましたが、何はともあれ、私は2025年9月7日をもって京大ボート部を引退します。京大ボート部員として過ごすのは、その日までです。様々なことがありました。楽しい時もありましたし、辞めたい時もありました。

琵琶周テストで圧倒的最下位を取り、少し新人コーチからの目が怖くなったとき。
秋季選手権の初戦、試合に勝つ喜びを初めて感じたとき。それと同時に、秋季の決勝でエルゴタイムの残酷さを思い知らされたとき。
冬季、まだシングルに3回しか乗ったことがないのにフロートを外されて早朝の瀬田川を漕いだ時の心細さ。
冬季でいっぱい同期が辞め、部活を続ける価値を問い直したとき。
ボート部で新歓をせずにダンスサークルの新歓を回っていたら周りから冷たい視線を浴びるようになったとき。
スタッフを頑張ろうと思ったものの、早朝に起きる生活から徐々に離れてしまい生活リズムの違いから苦しみが最高潮に達したとき。
スタッフの先輩方がとてもあたたかく、自分が頑張ることの出来る場所だと気づいたとき。
117期の琵琶周についていき、良い後輩たちだなあと傍から見ながら感じたとき。
新人選担当を凪さんの力を出来るだけ借りずにやり切り、遠征期間中は宮崎や清水など同期スタッフと色々な場所を練り歩いたとき。
頑張って準備したのに最終的に自分がネタキャラになった回生旅行。
凪さんや萌里香さん、藤田さんなど115期スタッフがコンビニに行きそうだったらとりあえずついていき何かしらを奢ってもらったとき。
冬季はスタッフの方が寒いということに気づき冬のモーター監視が心の底から嫌いになったとき。
新ツール導入を阻止するつもりだったのに気づいたら自分が新ツール導入レクチャーを部内でやっていたとき。
新歓幹部でも無かったのに勝手に幹部に入り込み、色んな部門の仕事に関与していったとき。
何故かずっと車を運転する配置になる全日本。
だいたい毎回スタバとタリーズに行った戸田への遠征。
先輩が引退したインカレ最終日、初っ端の凪さんのスピーチあたりで感極まって泣いてしまったとき。
合計約50人の配置を丸2日くらいかけて作った第75回東大戦。前日は徹夜をして準備し、東大戦翌日から3日くらいは熱が収まりませんでした。
幹部の仕事を遂行するって結構苦労することなんだな、と気づかされたとき。
なんか色々とごちゃごちゃしたことばっかり起こった2025年の春。
最上回生だからかモーターの配置ばっかりで少し飽きかけた新歓。
今度は何故か試合前の練習期間だけ遠征に参加し試合を1個も見ずに帰ることになった3度目の全日本。
正直第75回とは比べ物にならないくらい何もできなかった第76回東大戦。
引退という意識が芽生えるとともに、最後だからとやれる範囲でいっぱい行った8月の蓬莱のクルサポ。

思い残した・やり残したと感じることは、もう何もありません。十分にやりきった。そう感じています。だからこそ、私は次に進まなくてはいけません。もっと明るい明日を・もっと輝ける未来を願って、自分の道をまっすぐに歩んでいこうと思います。

今まで、本当にありがとうございました。
また、いつか・どこかで出会う日が来ることを祈っています。
その日まで、どうかお元気で。さようなら。