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面白い理由、面白くない理由

僕は常に面白いです。

今期履修した中で最も単位取得率が低いと思われる人文社会科目。人文社会科目の勉強をすると今回の記事のような理屈をこねるときに役立ちます。

東村です。

皆さんは次のような経験をしたり、意見を見たりしたことがありますか? 「現代芸術の良さがわからない」「最近社会現象になる作品が少ないと感じる」「芸人よりyoutuberのほうが面白いと感じる」など。最近、僕はこれらの現象が起こる理由の統一的理論を思いつきました。

はじめに、この理論の基礎となる社会構成主義について説明しようと思います。端的に言えば、社会構成主義とは伝統的個人観を否定する立場です。ここで言う伝統的個人とは、社会からも他人からも独立した認識・思考を持つ人間のことです。「えっ、これを否定するの?」と思われるかもしれませんが、人は生きるうえで多くの人から影響を受けていることを考えるとある意味当然の話です。社会構成主義では、人が集団(ここでは2人以上の人の集合のこと)の中で過ごしているうちに形成される行動や価値に対する想定を「規範」と呼びます。社会構成主義では「ここでは~すべき」「これは~だ」などの認識はすべて規範によるものだとされています。フロイトにおける「超自我(superego)」、ラカンにおける「大文字の他者」と似たような概念ですね。

さて、ここからが本題です。本論では個人の中に蓄積される規範をtextと呼ぼうと思います。人は生きていく中で様々な場面でtextを生成・変成していきます。他者と会話するときはもちろん、読書や音楽鑑賞などの一見個人的な行動においてもtextは生成されていきます。なぜなら、そこにはその制作者との関係があるからです。「ある作品に出合ってものの見方が変わった」などという経験は、自分ではしていなくても見聞きしたことはあるでしょう。極端な話「誰ともかかわらずに自分一人である結論に到達し、その結果textが生成される」というのも想定可能ですが、あまり現実的ではないので考えません。人はそれぞれの経験に由来する特有のtextを持っていますが、一部において共通部分があることも当然あります。複数の個人に等しく蓄積されているtextはcon-textと呼ぶのが妥当でしょう。

「人が受け取る情動はtextに比例し、人が人に与える情動はcon-textに比例する」…(a)

「textおよびcon-textは時とともに蓄積され、先鋭化が進む」…(b)

というのがこの文章の主な主張です。

最初に挙げた例で考えてみましょう。

  1. 現代の美術は過去の作品や作者の信条を前提として読み解くものが多いため、芸術に関するtextがないとどう鑑賞すればよいのかわからない。
  2. 時代とともに個人が持ちうるtextが増大し、先鋭化されてきた結果、個々人の好みが分岐しそれぞれが作品を探すようになった。ゆえに社会現象が発生しにくくなってきた。
  3. 芸人は何千万という人々を笑わせることが目標であり、また過去の活動をずっと見ている人はごく少ない。そのため、笑いに必要なcon-textの量をできるだけ少なくしなければならず、必然的に笑いの度合いは弱くなる。一方、多くのyoutuberは芸人と比べて見る人の数が少なく、過去の活動は動画として残る。そのため、長く見ている視聴者のみに特有のcon-textを植えつけることが可能であり、笑いは強くなる。

1は(a)、2は(b)、3は(a)(b)と主に対応しています。割と納得がいく説明ではありませんか?

例えば、ミルクボーイのネタがなぜ万人に受けるかというと彼らのネタを理解するのに必要なtextが「コーンフレークがどんな食べ物なのか」ということだけだからです。これは他の芸人にも言えることで、例えば店員と客のコントの場合、通常ありえないと思われている行動をすることで笑いを誘う形式が多いです。これはもちろん生活の中で「店員と客はこういう行動をするものだ」というtextが蓄積されているからにほかなりません。日本に住んでいるだけで得られるtextは日本在住者にとって最も一般的なcon-textであり、それを利用したネタは最も万人向けと言えます。

さらに、この理論を使うと自分の言ったジョークが伝わらなかったときに「お前のtextが足りない」と言って逃げることができます。これは自分のジョークが受けなかったのを相手の不勉強のせいにすることができる無敵のセリフです。積極的に使っていきましょう。

【前回記事への追記】

上記の記事で変拍子の曲はボートに悪影響だと書きましたが、最近エルゴルームでこの曲が流れてきました。

この曲は一部変拍子を使っていますが、ノリが良く聴きやすいので紹介しておきます。多分好影響があると思います。

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