○TEAMモリカワ ―ゆる体操に託した強豪チーム―
森川先生は1988年にボート部の監督に就任されました。ご自身の希望で就任されたわけではないようです。現代日本では「ブラック企業」「社畜」が批判されていて、就活生の多くが仕事の楽な会社に入るために、履歴書の自己PR文を盛ったり面接対策をしたりして必死になっています。しかし、ボート部の監督のきつさは、ブラック企業がブラックだと思えなくなるほどです。森川先生に休日はほとんどないようです。ボート部の監督は、生徒が事故にあったときに助けに行けるよう、練習中は常に監視しなければなりません。老朽化したボートの修理にも時間を追われます。関西高校の場合、艇庫がないため、ボートの管理は他の学校よりも大変なのです。ボート部のある高校が少ないことから、対外試合は県内で完結せず、他の都道府県に遠征しなければならなくなることも多いです。しかも、森川先生が指導された時期は、種目の変更(スウィープの廃止)があったため、対応に迫られたはずです。関西高校は私立なのでわかりませんが、公立の高校では部活動の指導に時間をかけても給料は増えないらしいです。厳しい状況のなか、森川先生は、どうすれば勝てるか考え続けたのだと思います。
愛媛県立今治西高校で私が井手勝敏先生にお世話になっていたことをお話ししました。今治西高校は関西高校と合同練習をすることがあり、監督同士の親交があります。森川先生は、「(井手先生は)感性が豊かな方ですね。大好きですよ。」とおっしゃいました。森川先生は練習法・指導法を模索する際、井手先生からも影響を受けたらしいです。井手先生の組まれた練習メニューは、今になって思い出せば、けっこう不思議な内容でした。エルゴをほとんど使わなかったのです。エルゴを使用して体を追い込むことが、ほとんどのチームで常識になっています。それにもかかわらず、数年に1回はボート部内の誰かが世界選手権に出場し、今治西高校は強豪として知られています。森川先生によると、井手先生の思想は古武術に通じているらしいです。古武術が何であるかといえば、「楽して勝とう」ということらしいです。井手先生の考え方の根本は、ゆる体操と共通しているということです。
森川先生は、2002年に京都市の伏見工業高校にて指導者講習を受けられ、高岡英夫先生(ゆる体操の創始者)により、ゆる体操を初めて目にされることになりました。森川先生は直感で「これは使えるぞ!」と思われました。しかし、独力でボート指導に活かすには限界があると感じられたそうです。当時の岡山市には、ゆる体操教室に通える環境はありませんでした。しかし、偶然のまた偶然のことながら、森川先生の知り合いが、ゆる体操教室を開かれたとの情報が入ったそうです。その方が、小野先生です。森川先生の息子さんが極真空手の教室に通われていたことがあり、小野先生はその教室の先生でした。最初は森川先生自身が、ゆる体操教室に通われました。そして、関西高校の生徒が、ゆる体操の指導を受けるようになりました。最初は2~3カ月に1回のペースでしたが、やがて週1回になります。森川先生自身の体のメンテナンスになり、ボート漕ぎの動作にも活きるため、「部員に還元したい」と思われたそうです。ゆる体操をボート部の練習に導入した最初の年に、舵手付きクォドルプルで埼玉国体に出場し、優勝しました。「国体出発の前日、最後の調整として学校で小野先生にゆる体操の指導を受けていました。が、なんと、その日の午後、岡山市に台風が直撃したのです。台風で電車も止まってしまい生徒は家に帰れなくなりましたが、小野先生が協力して下さり、学校から生徒を家まで届けてくれました。」と森川先生は語ります。小野先生も当時を思い出してニコりとしました。私はその場にいたわけではないのですが、森川先生、小野先生、当時の関西高校の選手と共に、国体の感動を共有しているかのように錯覚しました。ここから6連覇が始まることになります。
その6連覇のなかには、岡山県で開催された大会も入っています。「それは苦しい大会でしたよ。(関西高校のある)岡山県で開かれましたからね。」と森川先生はおっしゃいます。「それでも、舵付きクォドルプル・ダブルスカル・シングルスカル、つまり少年男子全種目を岡山県代表は関西高校の生徒だけで固めました。もちろん批判もありましたよ。どうしても関西高校だけで固めたかったのです。」とおっしゃいました。岡山県内にボート部のある高校は、6校あるにもかかわらず、全種目を1校だけで占めてしまったのです。しかも、舵手付きクォドルプルは、関西高校の最強メンバーだけで臨んだわけではありません。ダブルスカルでも勝つために、最強メンバーの一部はダブルスカルに分散させたそうです。「大博打でした」と森川先生はおっしゃいます。勝利の女神は関西高校に味方し、ダブルスカルでも優勝することになりました。関西高校の強さは、私の想像をはるかに超えています。確かに1人や2人傑出した生徒が入部することならば、どこの高校にも有りうることかもしれません。しかし、そもそも、入部する生徒のほとんどがボート競技未経験者である状況で、強い選手が7人以上入部することは、確率論でいえば「ほぼありえない」ことでないかと思います。強い選手を「量産」するシステムが関西高校に存在するということです。
このブログを読んでいる人のなかには、「ゆる体操よりも、他の練習メニューの寄与のほうが大きかったのでないか」と考えられる人もいるのでないかと思います。確かに、ゆる体操の他にどういう練習法が組まれているのか、気になるところではあります。関西高校では、練習時に部員全員が心拍計を使用していて、心拍数が160~180回/分になるように追い込んでいるとはお聞きしています。ゆる体操懐疑論が存在する一方で、若山聡選手(2007年関西高校卒)は、ゆる体操で自分が変わるということに信頼感を持っていました。ゆる体操に本気で取り組み、後輩にも勧め、チーム全体で、ゆる体操を尊重する雰囲気を作ったらしいです。世界ジュニア選手権に高校2年生から2年連続で出場され、全日本新人選手権(京大ボート部も出場している大会)に高校から出場して優勝、日本大学に進学してインカレ・全日本と国内大会で無敗、史上最年少でU23世界大会出場という猛者です。武田大作選手からも将来を期待されていたらしいです。
○ゆる体操を広めた森川先生
2010年の国体では準優勝となり、連覇が途絶えることになってしまいました。この年に優勝したのは愛媛県代表です。愛媛県代表が、ゆる体操をしている場面を、森川先生が目撃されました。ゆる体操は、当時のボート競技の関係者から注目を集めていたのでしょう。ゆる体操を関西高校が導入して効果を挙げたことが、ネットで公開されるようになっていました(http://www.ultimatebody.jp/kanzei1.html参照)。愛媛県代表には、今治西高校の選手も乗っていました。国体の数カ月前の沖縄インターハイで、当時の今治西高校(ダブルスカル)は優勝候補筆頭でしたが、予選から他の優勝候補と同じ組となり、結果3位で予選通過となってしまいます。 そこから勝ち上がって優勝することを狙ったらしいですが、なんと台風襲来のため、大会運営が困難になったことから、3位以下のクルーが敗退となったのです。インターハイで果たせなかった夢を実現させるため、国体でゆる体操を導入したのでしょうか。
関西高校にとって悔しい結果となりましたが、ゆる体操がボートの練習法における一大革命であることには違いありません。エルゴが1980年代に発明されて以降、ボートに乗らなくても、陸上でほぼ同じ筋肉を用いて練習できるようになり、現在ではどの漕手も使用したことがあるくらいに普及しています。ゆる体操の効果が関西高校で実証されたことは、エルゴの発明に匹敵すると、私は考えています。
岡山大学ボート部の選手が、ゆる体操に関心をもち、関西高校へ学びに来られたそうです。京都大学ボート部でも、過去に森川先生と小野先生に会って師事された方がいました(「語れ我が友」2010年3月11日の記事を参照)。2013年頃までは京都大学でも普及していたらしく、先輩にはゆる体操を知っている方がいます。
私が関西高校を出るとき、森川先生は「頑張ってください!」とおっしゃいました。握手をしました。森川先生の手は力強く、温かみを感じました。
○関西高校で指導を受けた効果
いくら余裕のない日でも、ゆる体操であれば、少し体を動かすだけで済みます。関西高校には、これまで3回うかがい、ゆる体操を学びました。最初に訪れたときは角南仁基選手(2018年関西高校卒業見込み)に付きっきりで教わりました。角南選手が肋骨を揺らしているのを見て、「どうしてこんなにぐにゃぐにゃできるのだろう」と思いました。帰宅後に、ゆる体操を二時間くらい連続で行い、次の朝になると、背中の元々感覚の弱かった部分に筋肉痛のような痛みを感じました。次の日になると痛みがなくなりました。その部分は以前は、自分で触っても触られた感覚がなかったのですが、ゆる体操をきっかけに、感じられるようになりました。
小野先生は、ゆる体操だけにとらわれず、他に有効なエクササイズがあれば、指導に取り入れられています。例えば、かかと歩きや仙骨回しがあります。かかと歩きの目的は「ストレッチャーを押す時の足の感覚を身につけるのが目的です」と角南選手が説明されていました。かかと歩きは靴を履いていない状態で行うため、最初は痛くてたまりませんでしたが、帰ってから毎日続けると、痛くなくなってきました。ボートを漕ぐときは、仙骨の感覚が重要らしいです。関西高校で仙骨回しをやりましたが、私は回せませんでした。これも自主的に練習すれば回せるようになりました。元々は歩くときに股関節を動かしている感覚だったのですが、脚の付け根が股関節から下腹部へ移動したような感覚になりました。脚だけでなく体幹部の筋肉も使われているように思います。森川先生が「筋肉が骨を動かすのだと思いますか? 骨が筋肉を動かすのだと思いますか? (人間の主観的な感覚としては)骨が筋肉を動かすのですよ」とおっしゃったのを思い出しました。まさに、脚の骨の動き方が変化し、それに伴って筋肉がついてきたような感覚でした。
私の大学院の研究の進捗としては、調べなければいけないことが多すぎて大変な状態です。大半の大学院生は、世間のイメージと異なり、自分で考えるのでなく、指導教官の指示通りに研究します。大半の人は我慢するのですが、私としては、自分自身で研究テーマを定め、自分自身で実験方法を決め、自分自身で実験結果を解釈できなければ納得ができませんでした。そのため、指導教官に干渉してほしくない意思を伝え、現在は自分自身で研究しています。それにはデメリットもあり、指示通りに研究するならば指導教官の一言で済むようなことも、長い時間をかけて調べなければいけません。留年はやむなしと覚悟しました。
そういうこともあり、2018年1月21日に乗艇して以降、25日間にわたって乗艇もエルゴもできていない状態でした。京大の森川将光コーチや同期の仲間から心配のLINEが来ることもありました。
空白時間の間、ゆる体操は続けました。体の感覚がどう変わっているか確かめるため、久しぶりにエルゴを使用しました。ハンドルを引くと、異常に軽くなっていました。エルゴの重さの調整が狂っているのかと思いました。ダンパー(数字が大きくなるほどエルゴが重くなるレバー)を見たところ、4であり、以前の数字と変わりませんでした。エルゴが壊れているのでないかと思いました。モニターの速度を見たところ、軽く引いた場合でも1分55秒/500mを切りました。以前は少し強く引かなければ2分00秒/500mを切ることはありませんでした。ゆる体操の効果で、本当に瞬発力が向上したのかもしれません。
○ゆる体操に興味を持った皆さんへ
小野先生のゆる体操教室のサイトのURLはhttp://ekimoto-yuru.com/です。ゆる体操について詳しく学びたい方は、運動科学総合研究所(http://www.undoukagakusouken.co.jp/)にアクセスすることをお勧めします。
ゆる体操の指導員は全国各地にいらっしゃいますが、ボート競技のパフォーマンス向上のために受講するのであれば、小野先生に師事するのがベストです。ボート漕ぎの原理に詳しく、どのようなゆる体操をすれば効果があるか、ご存知だからです。
もしも、京都大学ボート部で、ゆる体操をやりたい人が多くなり、小野先生に直接合宿所に来ていただいて指導を受ける流れになれば、いくら費用がかかるか、お聞きしました。初回は5万円+交通費(実費)とのことでした。一度に30人くらい受講することを考えれば格安です。安い理由をお聞きしたところ、「何回もやってもらいたいからです」とのことでした。2回目以降は、ゆる体操を行う熱意があるかどうかで指導するかどうか判断されるとのことです。
みんながゆる体操にもっているイメージは、小野先生の肋骨や背骨の動きを見ると変わります。ゆる体操をされるときに、いろんな場所がずれ動き、私には小野先生の体が波打っているように見えます。これは見た人にしかわかりません。