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物語

 皆さんこんにちは。いつもお世話になっております。4回生漕手の小西です。8回目にして最後のブログとなります。ブログを書くときにはほぼ毎回言っている気がしますが、本当に時間の流れは早いです。

 この4年間(正確には3年半、と言いたいところですが入部するのが遅かったので実際に在籍していたのは2年10か月ぐらい)本当に色々なことがありました。今までのことについて僕視点で振り返ってみようと思います。最後のブログにして申し訳ないですが、今回は自分の出来事を淡々と語るだけなので本当の本当に長くてつまらないです。引き返すなら今です。

 まず、僕がこの部活と出会ったのは1回生の春でした。下宿を探すついでになんとなく大学構内に立ち寄ったらいくつかの団体に声をかけられたのですが、そのうちの一つがボート部でした。その流れでオンライン新歓に誘われて2,3回参加して入部を迫られましたが、当時はコロナでどこの団体も対面新歓を行っておらず制限が解除されてから様々な団体を回ってから決めようと思っていたのと、正直体育会はないなと思っていたので、入部をするには至らずそのまま夏になりました。約2か月もの長い休みの間、コロナに気をつけながら友達と遊んだり1人でぶらぶらしたりして、楽しかったのは楽しかったですが、やることもマンネリ化してきて何か物足りなさを感じるようになりました。やがて9月になり後期授業が始まりましたが、相変わらず前期と同じく完全オンラインで、講義は延々とパソコンを眺め、食堂でご飯を食べるためだけに大学に行き、たまに遊ぶという繰り返しでした。11月中旬になり、NFは(少なくとも対面では)実施されないのにNF連休がありました。その休みを使って、なぜか自転車で琵琶湖を一周しようと思いつき、それが無事に終わったらこの大学つまらない日常に終止符を打つべくボート部に入部しようと決めました。ちなみにボート部が滋賀県で活動していることは入部するまで知らなかったので、入部前にビワイチをしていたことは運命かもしれません。ビワイチは朝の7:00〜翌日の深夜1:00の17時間、食事の時以外ほぼ休みなくママチャリを漕ぎ続けることで無事に終了しました。

 こうして、ボートを漕ぐことはもちろん見たことすらなかった上、学業との両立、中高で運動をしていなかったことなど色々不安はありましたが、画面越しからでも伝わってきたこの団体の熱さや雰囲気の良さに惹かれて、最後は自分のちょっとした勇気と勢いでボート部に入部することになりました。入部後は暖かく迎えていただき、京都モーションや2×での乗艇から練習が始まりました。最初は右も左も分からない状態で、とにかく多くの先輩に話を聞いて練習や増量に取り組んでいました。12月に1つ上の先輩方の東大戦で初めてボート競技のレースというものを見て、ボートって速いなと思った気がします。その後、年末年始のオフを挟んで練習が再開したと思ったのも束の間で、緊急事態宣言によって1月中旬から2月末まで滋賀県に行くことが出来なくなってしまい、各自で筋トレを行ったりしていました。乗艇もエルゴもできずボート部のアイデンティティがなくなってしまいましたが、振り返ってみればそんな時代もあったなという感じです。3月に入って活動が再開し、4月になっても同じような練習でしたが、新歓が始まって、よく分からないままボートレースに参加したりしていました。あっという間に4月も終わり、早くも上回生と合流することになりました。それまで代わる代わる僕にマンツーマンで指導をして下さったコーチの方々には頭が上がりません。

 5月の初めに初めて2000mエルゴを引くことになりました。このタイミングでは入部した時と比べて体重は10kg以上増加していました。引く前に先輩方にペース配分やレートについて聞くと皆揃って2000mに対して拒絶するような反応を示していたので怯えていました。それまでハイレートで1000mも500mも引いたことがない中での挑戦だったのでしんどさの比較のしようがなかったですが、そのような反応をしていた理由はすぐにわかりました。僕が引き終わった後日に先輩方が引くタイミングでそそのかされて結局その週は3回2000mエルゴを引きましたが、一番最初が最速でした。上回生と合流後はスイープを始め、4+に乗っていました。新人練とは違い、レースを意識した練習はレートやら強度やら色々違い、とにかく必死でした。スイープ経験がないに等しい新2回生が2人乗っていたクルーを引っ張り、優しく指導してくださった現M1のお二方はありがとうございました。6月、京都ボート選手権で1000mでしたが初めてレースを経験しました。ホームでのレースだったので意外にも緊張はしていなかった気がしますが、スタートしてからのことは必死だったのかあまり記憶がありません。

 そして、次のインカレ選考のために2000mエルゴを引くと18秒ほど更新しました。この時に僕より先に入部していた某同期のベストを上回ることができたのは自分の中では大きかったです。選考の結果8+に乗ることになり、非常に個性が強くて愉快なクルーで練習をしていました。このクルーでは全開放流中の騒動やら色々ありましたが、8月中旬ごろにコロナの影響でインカレが延期することとなり、様々な事情から8+は解体することとなってしまいました。クルーは、引退、違う種目で出漕など行く先はバラバラでしたが、僕と某同期は9月中旬の東大戦選考に向けて修行をすることとなりました。僕の回生の人数が少なかったので選考は1回生も交えてほぼエルゴの記録で決めるとのことだったのでエルゴに重点を置いた練習を行うもお互いなかなか記録は伸びずとうとう選考1週間前になり、このままではまずいということで、同期と相談して残りの1週間は全てエルゴをすることにしました。当時のメニューの記録が残っているのですが、12(日)2000 13(月)UT60min 14(火)1000*5 15(水)2000 16(木)1500+500+各自(?) 17(金)某同期2000、僕1500 18(土)オフ 19(日)2000と記されていました。今思うと別のもうちょっと良い方法があったのではないかと思います。某同期は17日に僕のベストを上回る記録を出し、僕自身はベストではないもののベスト+0.7秒ぐらいが出ていたので自信になりました。選考は台風のせいで一日延期になってしまい、気が気でない時間が増えました。選考当日、引き始めてからこのままではベストタイムが出ないと感じ、序盤からかなりレートを上げて突っ込みました。当然、後半で落ちましたが粘って何とかベストタイムを1秒ちょっと更新してクルーのシートを勝ち取りました。2人の名前が呼ばれた瞬間、某同期とハイタッチをして喜び合い、しばらくは2000mエルゴから解放されると思っていましたが、これまでは序章にすぎないのでした。

 東大戦クルーの始動の際に、クルー全体のエルゴスコアの低さを見かねたコーチが衝撃の一言を放ちます。「君たちにはこれから毎乗艇後2000mエルゴを引いてもらう」。危機感を持てよという意味のメッセージで流石に冗談だろうと思っていました。しかし、それを言われた日からきちんと引くこととなり、その週は4回、次の週は5回引いたのでした。当時はまだ準備片付け込みで練習時間は3時間までという制限があったのと、技術的な完成度が低く乗艇で強く追い込むことはできなかったので、2000mエルゴで練習強度はほどよい程度になっていたかもしれません。驚くことに週にこれほど引いていると、嫌ではあるものの2000mエルゴに対する恐怖心はそれなりに薄くなりました。伸び盛りのジュニアということもあって各日1,2人ぐらいベストを更新し、僕自身も一気に5秒以上の大幅更新を成し遂げました。また、悲劇はこれだけではありませんでした。10月になって授業が始まった関係で練習を早朝に行う必要が出てきましたが、合宿生活再開の目処は立っていなかったために早朝に合宿所まで行く必要がありました。東大戦クルーで京都住みの人は、電車が動いていない時間に誰も自転車以外の移動手段を持っていなかったので、朝の3:30に起きて軽く食事をとり、4:00すぎに家を出発して1時間自転車を漕いで合宿所へ、5:30にアップをして6:00に2000mエルゴを引いてから乗艇、というサイクルが始まりました。以前に主務がブログで4:00起きと書いていましたが3:30が正しいです。この早朝練習は週に2回しかなかったのが幸いですが、あの時間の道路は暗くてトラックしか走っていない上にビュンビュン飛ばしてくるため自転車で走るのは怖かったことを覚えています。また、2000mエルゴは1人を除いて誰もベスト更新をしなくなっていったので、毎乗艇前か後に必ずエルゴを引くことは変わりませんでしたが、メニューが2000mから2on1.5off×5に変わり、それに加えて週に1回か2回、4500×2を引くことになりました。そんなこんなで10月末に遠征に行きましたが、その最中もばっちりエルゴを引いて3部練を行ったのでした。やっとのことで遠征が終わり、東大戦まで1か月を切りました。早朝練習は週2回から3回になり、練習時間が1時間早まったため起床時間は相変わらず3:30でしたが、ホテルに泊まれることとなり、自転車移動をしなくてよくなったことはありがたかったです。残り1か月もあっという間にすぎ、戸田へと向かいました。例年と比べるとお世辞にも強いクルーとは言えませんでしたが、始動時と比べると成長はしていました。レースでは最初は予想外に出たものの、中盤で差し返されて終盤で離され、数秒の差で負けてしまいました。この結果を受けて落ち込みはしたものの、もっと強くなりたいという思いが高まり、ボートへの意欲は以前と増したのでした。

 そして、部全体として冬季に入ります。8+や2-で低レートを中心に練習を行っていました。実質初めての冬季練習でしたが、上に書いたようなこともあったのと、暗い中での練習はなかったのでそれほどつらいと感じた記憶はありません。忘れているだけかもしれませんが。また、その裏で新歓の準備も進めていました。僕たちの代は人数が少なかったからこそ新歓を成功させようという気持ちが高く、他の学年の協力も得ながらかなり頑張りました。2月になって部内で初のコロナ陽性者が出るなどのハプニングはありましたが、長いようで案外あっという間に冬季は終わりました。

 冬季が終わって選考を経て、僕は朝日レガッタには出漕せずに1×で練習することになりました。悔しい思いもありましたが、1×は今まで乗ったことがないに等しかったのでその経験もプラスになると信じて前向きに練習をしていました。4月、あまり実感は湧いていませんでしたが、3回生になりました。新歓が本格化して忙しさは増しましたが、その中でも1×の練度は日に日に上がっていきハイレートでもある程度漕げるようになっていました。

 5月、大会や新歓が終わって選考があり、またもや1×で練習をすることになりました。しかし今回は関西選手権に出漕することになりました。始めはよかったのですが、陸上でも水上でもずっと一人で練習をしているうちに、学業の方が忙しくなったことや同期の男子選手が僕一人になってしまったことなども相まってかなり精神的にしんどくなってしまいました。しかし、精神的にしんどくとも大会に向けてやるしかないと思い、義務感なのか危機感なのかよくわからない気持ちから20kmぐらいは漕いでいました。漕ぎ終わるとアドレナリンのせいか案外漕ぐ前より気持ちは楽になっていることも多かったです。大会当日、水上に出てからレースが終わって帰ってくるまでずっと一人ということを改めて噛みしめ、緊張感はそれまでよりも遥かに大きかったです。結果は予選、敗復ともに最下位ではなかったものの、上がりの順位のタイムには大きく及ばずというものでした。それ以上に、ミスオールも数回しましたし、自分が積み重ねてきたものを最大限出し切れず不完全燃焼で終わってしまったようなことが非常に悔しかったです。それも含めて実力といえばもちろんその通りですが。大会が終わって、学生コーチの方と話しましたが、僕は悔しい気持ちを引きずっており、失礼な態度をとってしまったかもしれません。すみませんでした。しかし、あの時の僕はその学生コーチの方に相談に乗っていただいたり、サポートしていただいたりと本当に助けられました。

 その後、7月中旬に今度はオックスフォード盾レガッタに向けて8+に乗ることになりました。精神的なしんどさから生まれた、今後自分がどうするかということについてはいまだに悩んでいました。しかし、練習をしているうちにクルーボートっていいなとボートの楽しさを感じるようになり、悩みは少しずつ消えていきました。そこから色々議論したり再び悩んだりもしましたが、僕が次期主将をやることになりました。夏休みに入り、とうとう部全体として部分的な合宿生活が行われることとなりました。といっても宿泊は1部屋につき1人までという制限があったので合宿所に泊まるのは週に2回でしたが、それでも2部練を行いやすくなったのはかなり大きかったです。8+の方では色々模索しながら徐々にクルーとして一つの形にまとまっていきました。僕は最初は3番でしたが、バウに移動になり、さらにふとしたことをきっかけに大会1週間前になぜか7番になってしまい、そのままレースに臨んだのはかなり無茶だったなと思います。レースでは競り勝つという経験をすることができました。また、大会前には10か月ぶりに2000mエルゴのベストも更新しており自信になっていました。他人からすると大した記録ではありませんが、長く停滞していた自分の限界を打ち破ったというような瞬間はとても喜ばしいものでした。

 そして、インカレ後のオフを挟んで幹部としての年度がスタートします。幹部としてやるべきこと・やりたいことは山ほどありましたが、年度を通して行った一番大きなことは、練習・生活形態をコロナ禍のものからアフターコロナのものに変えていくことでした。最上回生が少ない中でどうやって来年どうやって部として良い結果を残すか、それを考えたときにモーション数の増加は必須だと考えました。当時はまだ全員が合宿所に泊まって同じ時間帯で練習できるわけではなく、スタッフの人数の制約などもありました。エッセンも再開はしていましたが、室内で食べてはいけないというルール付きの上、回数は少なかったです。色々な変革を行っている中であっという間に11月中旬になり、部全体として冬季に入りました。

 冬季に入って宿泊可能な人数が増えて実質全員が同時に練習できるようになりました。モーション数も一段階増加し、初めて本格的な冬季練習を経験することとなりました。僕自身はやってやるぞという意気込みに満ち溢れていました。しかし、部全体として下宿をベースとする生活から合宿所をベースとする生活への移行は簡単にはいかず、今までとは量も質も違う練習に心身の疲労がたまる人も出てきました。といったように様々な問題も生じ、例年以上の変化で上手くいったこともあればそうでなかったものもあるという中で3か月少々の冬季練習は終わりを告げました。

 冬季明けの選考の結果、朝日レガッタに8+で出漕することとなりました。3月に入って冬季練習のことをレースに繋げるための練習が始まりました。新歓も本格的に動き出し、練習とオンライン新歓と対面新歓の両立といういまだかつてない状況の中で、さらに生活はハードになっていきました。そのような中で、怪我人の出現などによって8+は解体することとなってしまい、僕は大会には出ないことになりました。それでも僕に漕ぐという以外に選択肢はなかったので1×や2-で練習しました。この1か月弱の間でフィジカルや技術の向上を感じ、次の選考がやってきました。冬季からベストタイム更新はしていないものの、引くたびにベストタイムに近づいていたので今回は更新できるという自信があり、少しではありましたが思惑通りに更新しました。これ以上伸びずに引退するかもしれないという焦りもあったのでそれを打ち破った嬉しい瞬間でした。

 関西選手権には4+で出漕することとなりました。比較的組み始めから大会までは短い期間でしたが、乗っているのが全員上の回生ということもあり、早いペースで順調にクルーとしての完成度を上げていきました。僕自身としてもクルー結成の時と比べるとかなり技術的な改善が見られ成長を感じました。大会では予選を一着で上がって順調でしたが、準決勝では2位争いで競って負けてしまいました。その差わずか0.24秒でした。特に大きなミスをしたわけでもなく、練習で積み上げてきたことはまずまず出すことができましたが、勝てる見込みは十分にあった上に決勝には必ず上がりたいと思っていたので、今までで一番悔しいレースでした。大会後、大学院入試を控えた中で色々なトラブルがあり、精神的にかなりまいってしまい、パフォーマンスが落ちてしまいましたが、最近では少し調子が戻ってきました。

 長くなってしまいましたが、僕のボート部生活はこのような経緯を経て今に至ります。時間や都合の関係上ここに記したのはほんのごく一部のことで、他にも様々な人との出会いと別れ、日常でのふとした面白いこと、一生忘れられないような衝撃的なこと、など数えきれないぐらいたくさんの出来事がありました。ネガティブなことはなるべく省くように努めて書いてみましたが、僕自身は決して強い選手ではなく、今まで漕手として、幹部として、主将として、何度も理想と現実のギャップに苦しみ、自分の存在意義やボート競技との関わりについて悩みました。今、僕がここにいるのが不思議で、ましてや幹部や男子主将になるなんて、どう考えてもこのような世界線になる可能性はかなり低かったはずなのに、どうしてこうなったのかは自分でも正直よくわかりません。しかし、一つ確かに言えることは、今まで周りの方々の支えがなければ僕はこのブログを書いていないということです。監督コーチや多くの先輩方を中心にその他多くの方々が導いて下さり、励ましてくださり、支えて下さいました。成功よりも失敗の方が多く迷惑もたくさんかけたボート部生活でしたが、ことあるごとに周りの方々に何度も助けられました。本当にありがとうございます。

 周りの人から見れば大したことはないかもしれませんが、振り返ってみると良いことも悪いこともたくさん経験してきて、大げさに言えば一つの壮大な物語の集大成を迎えようとしているようです。間違いなくボート部に入部していなければ僕の大学生活はこれほど濃いものにはなっていません。引退された先輩が4年間続けて見える景色があるとおっしゃっていたような気がしますが、きっと誰にでもこのような物語はあって、物語が終わってからその価値に気づくのかもしれません。今、僕はインカレに4×で出漕することとなり、最後の大会に向けて練習をしています。この物語、ハッピーエンドにしてみせます。

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