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新歓か新勧か、なんてクソほどどうでもいい

 

合格発表も終わり、いよいよ新歓の時期ですね。なんて言っていると、「新歓じゃねえ!新勧だ!」なんて言っていた記事を思い出します。新入生は歓迎するものじゃなくて勧誘するものだろ!ってことらしいです。別に間違っているとは思いませんが、「新歓」か「新勧」のどちらが正しいかを討論するのは何より時間の無駄でしょう。入部者数が増やせるかという問題は、そんなどうでもいい呼び方の違いで大きく変わったりしません。部員の意識が変わる、なんて言いたいのかもしれないですが、「しんかん」という音の響きも変えず何を変えたつもりなのでしょうか。おそらくその人が言いたいのは、「新勧って漢字にしたら自分の気分が良くなった」ってことなのでしょう。「漢字を変えたら実績も出たぞ!」なんて言うかもしれないですが、おそらくたまたま増えただけです。もし本当に増えるなら、日本中が「新勧」まみれになっています。良い結果があるために過程が良いかのように思えてしまう典型例でしょう。

申し遅れました、京都大学ボート部新3回生スタッフの小杉俊介です。およそ9か月ぶりとなるブログです。なにかあった(休部とか、留学とか、その他もろもろ)わけではなく、怠惰という名の病気です。久しぶりなぶん、それなりな(クソほどどうでもいい)文章を書いていこうと思います。

先ほど冒頭で急にトゲ多めな話をしたのは、おそらくほとんどの人はこの類のどうでもいいことばかり考えていて、共感するふしがあるだろうと思うからです。ちなみに僕はそんな、どうでもいいことばかり考えています。最近の僕の習慣は、平日で溜めたストレスを、週末合宿所にいるボート部員と繰り広げる何の価値があるのかよくわからない会話によって発散することです。「マクドナルドで食べるとしたら何か」「お腹がすいたが、セブンイレブンに行くべきか否か」「たまごっちが面白い(最近某主務と某副務が持っている。たまッチングというたまごっち同士のマッチング機能があるらしい。)」「同期で何か面白いマッチングは生まれていないのか」「最近良い人に巡り合っていないのか(私にとってはちくちく言葉の一種)」「恋と愛の違いは何か(あったこともないのに知る由もない、聞くな)」などなど。人生のどこになんの価値を生み出しているのかよくわからない話で永遠に盛り上がっていたりします。喋りすぎた挙句深夜に突入し翌日睡眠不足でイライラすることを何度繰り返したことでしょうか。どうでもいいはずのことを考えるために、とてつもない時間を吸い取られています。

もっと言えば、人間はどうでもいい行動ばかりやっているんだろうなあと思います。もし最短の道で究極の目標へと突き進むことしかできないのなら、ボート部員は京大にはいなくなるでしょう。京大生で、最初から本気でプロのローイング選手しか目指さない人なんていません。もしある専門的領域の研究者になりたいのなら、その研究だけやっていればいいはずだし、もしビジネスを展開したいのなら、さっさと起業してみれば良いはずです。でも、実際にはボート部員はいっぱいいます。みなさんこぞって遠回りですね。

だからといって、そんなどうでもいい時間はないほうがましだ、なんてことを言いたいつもりは全くないです。むしろ、あるべきだと強く思っているからこそこんな文章をぐだぐだ書いているのです。

最初の話に戻ります。前述の通り、「新歓」か「新勧」かという話、これ自体に決着をつけることにはほぼ意味はないと思います。どちらが完璧に正しいというわけでもないし、勝ち負けとかは全く関係のない、個人の嗜好の問題です。両者の主張を聞くだけで十分でしょう。

ここにおいて大事なのは、「しんかん」の漢字の違いではなく、「しんかん」の漢字の違いにさえ気を使うほど強い思いをもって新歓(新勧)に向き合っていることだと思います。普通の人は、少なくとも新歓についてそこまで深く考えていない人は、こんな話題気にもしないはずです。そして「それ意味あるの?」と思うことでしょう。しかし一度そこへ至る思考を辿ってみれば、その人がとても新歓について深く考えていることがわかります。おそらく、新歓について語る相手としてはこれ以上なく面白い相手でしょう。「新勧」のほうが漢字が美しい、とかいう謎めいたことばかり唱える人を除いて。

大学生というものは、時間をどのようにも使うことが出来ます。バカみたいなことをしたり、バカみたいな時間の使い方が出来たりします。実際、なんの役に立つかなんてわからないような時間ばかりです。でもその中にも、意味を見いだそうとすれば見いだせるものがいっぱいあります。「新歓」か「新勧」か、を討論するなんていう、新歓するとき以外何の意味があるのかわからないような話題を喋っていても、実は人間性の成熟とか、他人の考え方を知るとか、その人との友情を深めるとか、いっぱい意味はあるものです。一見遠回りでも、その道には道具がいっぱい落ちていてこの先の道を歩くのに役に立つものになっている、って感じなんでしょう。

僕の大学生活は中間地点を通り過ぎようとしています。もうすでに就活が見え始め、遠回りなんてのんきなことを言っていると周りの人々に置いていかれそうなように感じます。でもせっかくなら、一見遠回りに見える、どこに繋がっているのかわからないような道に進んで、そこにしか落ちていない宝を一つずつ拾い上げることができるような2年にしたいなあと思っています。今しか拾うことの出来ない物は、あとからどれだけ引き返して拾おうと思っても、決して同じものを拾うことは出来ません。あと2年、大学生活のなかでしか手に入れられないものを見つけられるだけ見つけられたらいいなあと思います。

大学生活でしかできないこと、という概念だけでも様々な選択肢があります。僕は今年東大戦の主担当スタッフとなり、東大戦に専念することになりました。しかし、ここに至るまででもめちゃくちゃ遠回りをしました。1年前のブログでは辞めようか悩んでいる、なんてことを書いています。実際、辞めるつもりだった時期もありました笑。ですがなんやかんやあって、今では部畜とも言えるかのような立場になっています(なんやかんやについては、僕がボート部を辞める時のブログの題材に残しておきます)。何が起こるかなんて結局誰にもわからないもんで、出来ることに全力で取り組み、得られるものを得ることが大事なんだろうなと思います。
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