熱意が足りない。
高校時代の英語の先生にそう言われた。
今年の3月にあった同窓会の時だった。
同窓会でそんなこと言うなよと思ったが、まあ当たってるなとも思った。
今年を振り返れば、まさにそんな一年だった。
自分に足りないものを痛感することが多かった。
やっぱり先生と言うものは人のことをよく見ている。
高校にそんな良い思い出はないが、善い先生には恵まれていたようだ。
熱意とは何か。
私は自分への欲求だと思っている。
合格したい。勝ちたい。負けたくない。
これらの類の欲求は、自分に対する「自分はこうありたい」という欲求である。と思っている。
私にはそういう欲求はそんなに無かった。
ありたい姿なんてよくわからない。
気づいたら京都大学に来て、もうすぐシャカイ人らしい。
生徒というのは目標を立てやすい。
学んでいればそれでいいのである。
とりあえず偏差値的に上を目指した結果、今ここにいる。
なぜ京都大学、と言われても理由などない。
ただ流されたから、というのが最も大きい理由だと思う。
将来のありたい姿を描けているわけではなかった。
そもそも何のために存在するか、というのもよくわからない。
無意味だと囁く悪魔から逃げるため、ただ闇雲に何かに打ち込むことが多い。
モチベーションと呼んで良いのかは知らないが、それが自分のモチベーションだ。
それが今はたまたま、部活に打ち込む感じになった。
シュウカツというものもやっているのだが、いかんせん将来の在りたい姿を考えるもので、いまいちやる気を出せない。
無限大に広がる可能性の中から一つの目標を選択するというのは、そんなに簡単でない。
何か目標を持っている人に憧れるが、自分にはかなり難しいようだ。
何かを得れば、同時に別の可能性を無限に失う。
選択の難しさにはいつも閉口する。
今は東大戦主担当幹事というものをやっている。
たぶん忙しいのだが、全体的に少し不完全燃焼な気もする。
とはいえ1ヶ月前だし、まあ流石にそろそろキツくなるのかななんて思っている。
とりあえずの目標は、部活を少しでもいい方向に変えることだ。
いい方向ってなんだ?とは思う。
別に強くなることだけがいい方向、というわけでもない。
ただ自分はボート部に強くなって欲しいと思ったから、何か数年後の強さにつながるようなことができていれば、と思っている。
変化させた先がどうなるかわからない中で、試せることは試して行きたいと思っている。
良かったか判断するのは、自分ではない。
なんでこんなことを思っているんだろうか。自分でもよくわからない。
何度も辞めようと思っていたくせに、と我ながら思う。
ただそこにあったから、だけなのかもしれないし、何か別の理由があるのかもしれない。
ともあれ、部活にいられる時間はあと1年もない。
今あるやる気が本当の「熱意」なのかどうかはわからない。
ただ、自分の可能な範囲で「熱意」とやらを部活に捧げてみようと思う。
その先に何か光を見出すことが出来たとしたら――