先日、ある美容室にて、スタイリストに「仕事には、やりがいや楽しさを求めすぎてはならない」といった趣旨のポリシーを語られた。なんでも、「やりがいがある・楽しさがあるから仕事をしている」という条件関係のもと勤務してしまうと、それらを感じられない状況に陥ってしまった場合には、仕事が甚だ億劫になり、継続して働くのが苦痛になってしまうからとのことである。彼自身も、仕事をしていたら、あくまでたまたま後からやりがいや楽しさが付随するようになったと考えるようにしているという。「やりがい・楽しさなければ仕事なし」という事態を避けるためである。
では、如何にして健全に働くことができるのかと問うた。彼は、多数の逃げ道を用意しておくことが大事だと答えた。恋人や友人、散歩や瞑想、趣味、宗教など何でもいい。一つの物事が苦痛になった場合に備え、自分の心体を防衛するため、そして再びその物事に向き合うための道を用意しておくべきである。そして、互いが、互いからの逃げ道になっていればなおのこと良い。時間という助けの下、半永久的に再利用可能であるからである。” Szégyen a futás, de hasznos.” ―逃げるは恥だが役に立つ―とは(恥であるか否かは別として)当を得た諺であろう。
今の私にも逃げ道はいくつかある。例えばランニング。運動不足解消のため、高校受験を控える中3の時期に始めたのがきっかけではあるが、今では高い結果を残すことが目標になるくらいには楽しんでやることができている。いつからか自分の中における心体両面における重要な支えになっており、ある時はいつものランニングロードが「逃げ道」に変化するのである。
───「ボート部が『逃げ道』になっているか」
どちらかというとボート部は、選手にとって逃げ道を作る必要性が生じる原因の方ではないか。2時間UT、2000mエルゴ、9:30消灯4:00起き、京都-石山の往復等々、傍から見ると苦役かそれに似た何かであると思われかねない。
しかし、2000mエルゴを引いた後「二度と引かねえ」と口にしもなお、その1か月後には再度同じことをしている。4:00起きが嫌だと言いながらも結局朝の集合に遅刻しない。結局漕ぐのを辞めず、同じことを幾度も繰り返すのである。それほどのことをして何を目指しているのか。言うまでもなく日本一である。
無論、口先だけで実現可能なほど容易なものではない。こちらがいくら努力しても勝てないのは、敵も同様に努力をしているからである。同様の努力をしても差が生じる原因の1つは、才能の有無・程度であろう。骨格や身長、手足の長さ等の先天的な身体の特徴ないし所謂運動神経と呼ばれる競技を行うに際してのセンス、これらには個人差が当然存在する。同じ努力をした場合、手足が長い方がエルゴをより回す、センスの良い方が艇を速く進める可能性の方が相当高い。
2つ目は環境の違いである。関東の私立大学は推薦入試という形で有力なボート経験者を集めており、入部者平均のボートに関する知識・技術は我々の遥か上を行っている。スタート地点が違いすぎる以上、彼らと全く同じことをしていても一向に追いつけない。
しかし、才能と異なり、環境は作ることのできるものである。客観的な努力の量が同じならば、より努力の質が高い方が上手になる。そしてその質を高めるために、コーチは練習メニューを作成・改良し、スタッフは選手が練習に集中できるような環境を整えている。
そのようなバックアップで選手が勇気を持てるようになったら私としてはうれしい。周囲の支えがあれば、選手も部活に対する満足度は高くなるはずだ。そういった意味で、私は彼らの「逃げ道」を整備してやりたい。付随して「楽しさ」がもたらされたなら、此処は我々サポートスタッフの「逃げ道」にもなるのではないか。