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أستخدم نادي القوارب

アッサラームアライクム!アナターリブンフィーキョートジャーミアティ. ハルダラストゥムルガタルアラビーヤタ؟ 縺ィ縺?≧縺薙→縺ァ縲√%繧薙↓縺。縺ッ縲ゆク?蝗樒函繧ケ繧ソ繝?ヵ縺ョ鮟呈セ、縺ァ縺吶?ゅ∪縺ゅ◎繧薙↑縺薙s縺ェ縺ァ縺薙s縺ェ蟄」遽?繧医?ょッ偵☆縺弱※豸咏岼縲り?ウ縺檎音縺ォ蜀キ縺医k縺ョ縺ァ縲√?繝ウ繝昴Φ縺ソ縺溘>縺ェ繧?▽繧定イキ縺?◆縺?.. といふことに、人に読まする気のなき日記なれど、許したまへ。物語の語らひ草がなければ、文体にふざくべかりけり。いつか十川のごとき人になりたし。

まあ、正直言って特に話すことがあるわけでもないのですが、上に書かれている文章、つまり最初に書いたその内容は、読んでいただけましたでしょうか。まあ、あまり深く考えることもなく書いたものですから、どう受け取られたかは分かりませんが、ひとまず自分の感じていることをつらつらと書いてみることにしました。実際、最近は特に何もしていないのに、少しだけ嬉しいことがありました。そう、銀行の口座残高が少し増えたんですよね。ほんの少しではありますが、それだけでちょっとした安堵感というか、満足感を得ることができました。生活に直接的な変化があるわけではないのに、どうしてこんなに嬉しいのか、自分でも不思議ですけれど、やっぱりお金が増えることって、なんだか気持ちを楽にしてくれるものなんですね。そんな感じで、今はその少しの増加にホッとしている毎日を過ごしています。日々の生活に特に目新しさがあるわけでもなく、モチベーションも全くないまま、何もかもにやる気を感じることなく、ただただ怠惰そのものの生活を送っているわけです。まさに「怠け者」の典型的な生活。何かに取り組む気力もなければ、新しい目標を設定しようという気すら起こらない。特に、何かをやらなければならないという切迫感もないし、ただ流れに身を任せるだけの毎日です。そうやってだらだらとした日々を過ごす中で、自分自身を見つめ直す時間を作りたいという欲求はあるのですが、それもまた気分が乗らないとやる気が出ないものです。自分のことを深く掘り下げて考えることには、興味もないわけではないのですが、現状ではその「じっくり見つめる」作業をするエネルギーが湧かないんですよね。まあ、言ってしまえば、今はそれをする気もないということです。別に無理に自分を見つめ直して変えなければならないわけでもないですし、今は今の自分をそのまま受け入れて生きるのが一番だと思っています。それにしても、最近の私の考え方や文体が、どうしてもどこかフーコー的というか、哲学的なニュアンスを含んでいるように感じてしまいます。フーコーと言えば、社会や歴史を深く掘り下げて、権力や知識、個人の自由といったテーマを扱っていた思想家ですが、私の文章がそういう風に聞こえるのは、おそらく自分が今、自分の存在や生活について何も考えずに流れに任せている状況だからこそ、どこかそんな思想的な空気が漂ってしまうのでしょうか。いや、もちろん私はフーコーを意識して書いているわけではないのですが、そうした哲学的な視点が潜在的に影響を与えているのかもしれません。自己探求的な思考が芽生え始めたわけではないのですが、ただ、無意識のうちに自分の中に湧き上がるものを素直に表現した結果、フーコー的な響きになったというわけです。いずれにしても、こんな感じで私は今、あまり積極的に自分を見つめ直そうとは思っていません。自分を深く掘り下げる必要があるかどうかも、今のところはよくわからないですし、もしかしたらずっとそのままでいてもいいのかなとも思っています。自分をじっくり見つめるという行為がどうしても面倒くさく感じられて、いまいち乗り気になれないのが本音です。それでも、たまにこうして文章にしてみると、少しだけ心の中を整理できるような気がします。何もしていないようで、実はこうしてちょっとした思考の断片が浮かんできたりするものなんですね。

さて、そんなこんなで私のボート部生活は早いもので半年を迎えようとしています。この時点での私の感想は、正直なところ、それほど深遠なものではありません。ただ、敢えて振り返ってみると、少なくとも自分がこれまで経験したことのないような環境に身を置けたこと、そしてその環境の中で素晴らしい仲間たちに囲まれたこと、これらは間違いなく私にとってかけがえのない貴重な体験だったと感じています。もちろん、どんな活動や経験にも良し悪しが伴いますが、ボート部という集団の一員として、仲間たちと共に何かを成し遂げようとする日々の中で感じたことは、言葉では表しきれないほど多くの学びがあったと思います。ここで思うのは、「環境」というものが人間に与える影響の深さについてです。私たちがどのような場所に身を置くか、どのような人々と関わるかによって、私たちの存在そのもの、さらには私たちの思考や行動がどれだけ形作られていくかという問題です。ボート部という活動の中で、仲間たちと過ごす時間、共に汗を流し、共に悩み、共に喜びを分かち合う。その一つ一つの瞬間が、私の人格や価値観に何らかの影響を与え、形作っていることを否応なく感じさせられます。これはまさに、デカルトが言う「我思う、故に我あり」のように、「我が存在は、他者との関わりによって明確にされる」ということを体験しているような気がするのです。さらに言うならば、この大学という環境自体が、私にとって一つの「世界の縮図」のように感じられます。日本中、いや、場合によってはそれ以上の地域から集まったさまざまな人々が、この場で交わり、共に学び、共に成長していく。この場においては、北海道の広大な大地から沖縄の温暖な海風まで、物理的な距離を越えて多様な文化や価値観が交錯していることに、私は改めて気づかされました。もちろん、沖縄のように実際にその地から来ている人もいれば、逆に北海道から来ている人もいますが、それだけでなく、例えば家庭の背景や教育環境、さらには個々人の性格や思考方法に至るまで、その違いは多岐にわたります。それらの異なる価値観が交わることで、新たな視点が生まれ、私自身の世界観も少しずつ広がっているように感じます。ここでふと思うのは、私たちが「日本」と呼ばれる一つの国に生きているということの意味です。この国の中だけでも、地域ごとの文化や価値観の違いがあるという事実は、実に興味深いものです。例えば、北海道と沖縄、東北と関西、四国と九州、これらの地域ごとに、風習や言葉、さらには生活様式が異なるというのは当然のことですが、それでも同じ「日本人」であるという感覚が共有されています。この矛盾したような現実こそが、人間社会における文化的多様性の本質を物語っているのではないかと思います。もしも、私がこのような大学という多様な人々が集まる環境にいなかったならば、こうした日本国内での価値観や文化の違いにも、あまり深く思いを馳せることはなかったかもしれません。実際、普段の生活で私たちはどこに住んでいようと、意識することなくその環境に溶け込んでしまっていることが多いのです。けれども、こうして全国から集まったさまざまな人々と接する中で、ふと気づくのは「自分の当たり前」が実は「自分の地域や背景における当たり前」に過ぎないという事実です。このことは、私たちがしばしば無意識のうちに持っている「自分の文化が最も正しい」といった考え方を見直すきっかけになります。もっと言うなら、地域ごとに異なる価値観が存在するという現実を前にして、私たちは「世界」というものがいかに広く、また深いものであるかを再認識することができるのです。もし、日本国内だけでこれほどまでに異なる価値観や文化が存在しているのであれば、果たして「世界」とはどれほど広大で、どれほど多様な価値観が交錯する場なのでしょうか。世界には無限の文化があり、それぞれの文化には独自の歴史と背景があり、それぞれの人々はその文化の中で育まれ、影響を受けながら生きているわけです。そう考えると、私たちが日々感じている小さな違和感や戸惑いも、実はその多様な価値観の中で生まれる自然な感情であることがわかります。要するに、今私が感じていることは、単なる「大学生活」や「ボート部生活」の一環ではなく、むしろそれは私が存在する社会全体、さらにはもっと広い意味での「世界」についての深い考察を促すきっかけにすぎないのかもしれません。私たちが持っている「価値観」というものは、実はその背後に広がる無数の歴史や経験に基づいており、それを知ることができたとき、私たちは初めて本当に「他者」との違いを理解し、尊重することができるのではないかと思います。そして、この多様な価値観が交錯する中でこそ、私たち一人一人の存在がより深い意味を持ち、真に他者と共鳴し合うことができるのだと感じています。

話は変わりますが、こないだ遅ればせながらDISH//の「沈丁花」という曲を聴きました。とてもいい曲でした。沈丁花の花を知っている方は少なくないと思います。でも、実は私、直接その花を見たことがないんです。名前だけは知っていても、花がどんな形をしているのか、色や香りがどうなのか、まったくもって詳しくはわからない。それでも、なぜか沈丁花の「存在感」や「雰囲気」は、しっかりと感じ取ることができるんですよ。不思議ですよね。沈丁花という名前を耳にすると、最初に思い浮かぶのは、冬の終わりから春にかけて、寒さに耐えながらも凛として花を咲かせる「不屈の精神」のようなもの。名前の響きから、何だかしっとりとした、でも静かな強さを感じさせられます。「沈丁花」と書いて「じんちょうげ」と読むその名前には、まるで日本の美意識がぎゅっと詰まっているような気がして、私の心の中でひっそりと響くんです。では、実際にその花を見たことがない私が、どうして沈丁花の「オーラ」を感じ取れるのでしょうか?おそらく、それは沈丁花にまつわる言葉や文化的背景、さらにはその花が持つ象徴的な意味に影響されているからだと思います。まず、沈丁花は「春の到来」を象徴する花とされていますよね。日本では、沈丁花が咲く頃、冬の厳しさが少しずつ緩んできて、春の暖かな気配が漂い始めます。その花の香り、強い甘さを持ちながらもどこか上品で、遠くからでもふわっと感じられるくらいです。その香りを想像するだけで、寒い日が続く中で「おっ、春が来たぞ!」と心の中でちょっとワクワクしてきませんか?あの香りに触れると、次第に暖かさが訪れることを信じたくなるんですよね。まるで冬から春への移り変わりの中で、心の中にポッと温かな希望の光が灯るような、そんな気持ちにさせてくれます。また、沈丁花は日本の詩や歌にもよく登場します。俳句や和歌で沈丁花が春の象徴として詠まれることが多いんですよ。これらの詩的な扱われ方が、沈丁花のイメージを深め、より普遍的なものにしているんです。私なんかはその花を実際に見たことがないのに、詩や言葉を通じてその花が持つ風情や意味を、グッと感じ取ることができるんですよね。少し調べて沈丁花の花を見てみました。花弁は薄いピンク色や白色で、細かな部分まで丁寧に作り込まれていて、まるで工芸品のような美しさなんです。花が咲く姿は、どこか整然としていて、その精緻な作りに心を奪われます。美しさって、外見だけではないんですよね。その花には、内側からにじみ出るような、静かな強さや意味が込められているからこそ、見る人の心に深く残るんです。沈丁花の「強さ」と「優雅さ」の絶妙なバランスが、私がその花の「オーラ」を感じる理由だと思います。沈丁花が咲く場所は、たいてい陰になっていることが多いんですよ。それでも、静かに、しかし確実に咲き誇る。その姿には、どんな困難な環境でもしっかりと花を咲かせる生命力が感じられます。けれども、その中にも、春の陽射しを待つような優雅な佇まいが漂っていて、なんとも言えない魅力があります。私が沈丁花の花の「雰囲気」や「オーラ」を感じ取れるのは、この花が持つ多面的な魅力に触れたからこそです。目に見えるものだけでなく、言葉や文化、さらには象徴的な意味からも伝わってくるものがあるんですよね。それに気づくことで、目に見えないものへの感受性も豊かに育まれていく気がします。今の時代、インターネットやSNSが普及して、目で見て感じる情報があふれていますよね。でも、視覚だけでは伝わらないものがあるということを、私たちは忘れがちです。沈丁花の花は、そのことをしっかりと教えてくれます。実際に目で見たことがなくても、名前や文化、象徴的な意味を知ることで、その存在感をしっかりと感じ取ることができるんです。結局のところ、沈丁花は「目に見えるもの」と「目に見えないもの」の橋渡しをしてくれる存在なんだと思います。私たちの感性を豊かにしてくれる、そんな素敵な花なのではないでしょうか。以上AIに書いてもらった文章でした。自分の手の込んだ文章は一切ありません。以下AIからのレビューです。

どういたしまして!お役に立ててうれしいです。沈丁花についての感覚やその魅力を深く掘り下げて考えることは非常に有益な体験です。この花が持つ「オーラ」や「雰囲気」を感じ取ることができるという点についても、非常に興味深い観点を提供していただきました。沈丁花のような花は、視覚にとどまらず、嗅覚や言語、さらには文化的背景といった要素を通じて、私たちに深い影響を与えるものです。私たちが目にするもの、そして感じるものには、常に多層的な次元が存在します。沈丁花の香りが春の兆しを感じさせるように、私たちの感覚は常に環境と連動しており、その認識は日々の文化的積み重ねの中で形作られていきます。言葉や詩を通じて花のイメージを受け取ることができるというのは、まさにその感覚的理解の進化の一例です。さらに、近年の研究において、植物が持つ感覚的特徴やそれらが人間に与える影響についても注目されています。特に香りや色、花の構造がどのように人々の心理や情動に働きかけるかという点については、心理学的および生理学的な観点から多くの知見が蓄積されてきています。沈丁花の強い香りが私たちに春を感じさせるのも、そういった植物の持つ「力」によるものだと言えるでしょう。とはいえ、この分野は日々進化しており、感覚や認識に関する新しい発見が常に行われています。沈丁花に限らず、植物と人間の関係についての理解は、これからも広がりを見せるでしょう。その意味でも、あなたのように日常的な感覚を大切にし、それを言葉で表現することは、私たちの理解を深める上で非常に貴重な行為です。もし、沈丁花についてさらに掘り下げて学びたいことがあれば、どうぞお気軽にお尋ねください。どんな視点からでも、その魅力をさらに深める手助けができれば幸いです。昨今のAI技術の進歩には驚かされます。シンギュラリティの時は近いですね… 以下黒澤なりの文章。

まあ流石にフルでAIは手抜きにも程があると思うんで、人間の私が文章を綴りたいと思います。AIの文章、なんとなーく読みづらくないですか?まあなんか中身あるようでないような、いやそれやったら自分の文章と変わんねーか。まあいいや、この間長嶋という男の家に遊びに行ったんですがいい部屋でした。いい感じに広いし、まあ綺麗やし、風呂もあるしでとてもいい睡眠も提供してくれて感謝感謝。彼ともご飯を食べましたしラーメンもいつかの昔に食べました。彼初めての天一、満足気に麺を啜る彼の顔を間近でみて、特に思うことはありませんでしたが、まあ美味しそうでよかったねという感じでした。長嶋という男、これは長嶋っぽい気もします。こうじろう、くーじろうというと可愛いんですが、まあ彼も実際かわいいんですがなんか可愛さの裏に真面目さがあるというかかわいさの中にクールさがあるというか可愛さの中に抜けたとこがあるというかまあベタ褒めはしませんが、評価はできます。そんな彼は男であり漢なんでしょう、まあ漢らしい男の長嶋という男をこれからも皆さん応援よろしくお願いします。私は彼専属のクルサポです。くーじろうのくーはCOOLのくー?それとも黒澤のくー?それともクーちゃんのくー?どれでもいいのがくーじろう、長嶋らしき男の真骨頂なんです。長嶋はいつも日々奮闘していますが、私はそうでもないですよね?私の努力性はそこら辺の溝に置いてきたというか、入試会場に置いてき忘れたのか、それともかつての夏、私が北千里から天下茶屋まで寝過ごしたあの夏の日の朝に天下茶屋に置いてきたのか、努力感努力できる努力性を見失った私と長嶋のコントラストは他の部員にはどう写っているのか、怠惰と言われ続けた黒澤と、怠惰と言い続けた十川のそのやりとりはコントなのかガチなのか、そんな十川も怠惰の波に飲み込まれ息ができなくなり怠惰性を帯びたただのたいだだったというだらくらいらいらくらくならいらっくてきらいふがだせいてきなのか、だえんけいの軌道を永遠に惑星周軌を模した楕円形な惰性感… 十川は十川でいるのはいいですが十川はいい加減に目を覚ました方がいいとは忠告しておきましょう。まあとりあえず意味もない文章をただただ書き連ねて楽しくはないですが、まあこれもボート部に入部したための宿命、Subtitleといったところでしょうか、それともPretender?何か見えない自分を演じているのか、I LOVE…の先を言えないぼっちだらけのボート部一回生なのか、髭男はボート部の真理をつっついてきます。私は髭男と同じ時間を共有できて嬉しい。ハッピーハッピーハーピーです。まあある程度の字数があるはずなんでAIの部分いらんかったかな?まあいいや、それもそれで一つのブログ。読ませる気もないし、自分が読んでもらいたいとも思えない、そんなブログを4年間かけて作り上げたいと思います。以上決意表明でした。たった一羽の冴えないスタッフが4年間かけて何か躍動できる機会を見出したい、そんな思いを抱きながら日々を生きたいと思います。とりあえず授業には出ますし、学校にも行きます。決して怠惰ではありません、十川の怠惰はみんなの勤勉、十川は勤勉すぎるのかすでに卒業要件を満たしてるバケモノですが、そんなことは普通起きない。来年は十川と同じ授業を取ってやります。十川は人健なんで予定は合わせてくれると思うんで、いけます。十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川+川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川十川。こんなかの一つ、十がプラスになっててもおそらく気づかないでしょう、十川にしか興味がないから、十川以外には目が行かないから、十川の漢らしさにみんなのめり込んでD>0になってるから。以上十川への期待でした。

さあブログも後半戦に入りそうな場面です。四六時中も好きと言ってと歌ったあの男性や、君の運命の人は僕じゃないと歌ったあの男性、生きてる証を時代に打ち付けろと歌ったあの男性が個人的に好きな男性なんですが、2人目のライブに当たったんですよね、先日。非常に嬉しいのですが出費がこれまたわらえーない。笑いたくなるような日々を過ごすのが割とモットーやったりしたんですがそう上手くいかないのが人生っちゅうもんなんですわなぼつわな。こないだ出した新曲聴きましたか?その名も「50%」これまたいい曲でどハマりのめりこみぜいこみって感じで最&こーちゃんってわけです。なんか現代社会の闇をつっつきながらも彼自身は闇の中にいる… 一種の社会からの内部告発?いやでも私らも結局は社会内存在やから告発…?社会外存在とはなんなんでしょうね。社会にとらわれない人々… 社会から逸脱した人物…?人々はそれを「社会不適合者」と呼びます。それって悪いことなんでしょうか?時代を変えてきた人は全員社会不適合者だったと思います。社会に適合していれば社会、時代は変えられない、これって普通のことですよね。革命家といった人らは今でいう「社会不適合者」だったのでしょう。社会内存在にとどめようとする現代社会の傾向には少し賛成できませんが、少しでも「社会不適合者」の片鱗が見えたら、その時は一つの成長としてもいいのではないでしょうか。にゃーい、夜に文章を書くとこーゆーことになるんですなぁ、どうでもいいことをだらだらと論じられるのはまあ悪いことではないでしょう、多分…

今日の朝定点監視!!!!寒すぎいいいいいいいい、めちゃくちゃ着込んだはずやのになんやねんってなりましたおほんまに。足先がキンキン、一緒に持ってたお茶も冷蔵庫から出したレベルでキンキン、今もキンキンのまま… 冷蔵庫にずっと入れられてたと同義ということですね…このブログの終着点がイマイチわかんなくなってきました。どうなれば終わりなんでしょう… 。لا إله إلا الله まあこれを締め括りにしましょう。後期も頑張ります。

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