※別に本ブログの主題ではありません。
おはこんにちばんは。あけましておめでとうございます。―年を越してしまいました。ごめんなさい。まさか二枚目を書けるとは思いもせず。だいぶのんびりと書いてきたせいで、プロット時にあった思考習慣ががらりと変わってきたり変わっていなかったりしている。とりあえず近況報告。最近は手元の本開くか、対戦でやりもしない昇竜キャンセルSA3をやるか、天かすを生で平らげるかくらい。
勿論・冗談。
とはいえそんなことばかりしているせいで、同窓会での「中学から変わっていない人」のランキングで見事の一位。中学のみんなのランドマークになってやった。髪でも染めて、コンタクトにして、ピアスばっちばちにあけていけばよかった。
あと最近アニメ「メダリスト」を見始めたり、ガンダムの映画を見に行ったりしました。米津玄師大好き。「メダリスト」は1話見てぼろぼろに泣いちゃったし、これは本を買って部屋の本棚に並べなければならないというバイブル欲求を刺激しやがりました。演技の監修はガチのメダリストだし、音楽は林さんだし、これは見るしかない。はやくいのりさんのプログラム見てぇ。それでガンダムはくそほどよかった。ファースト、SEED、UCを春休みに見まくる未来が見えます。バトルシーンも米津も推しの挿入歌もくっそかっこよかった。米津さん、「チェンソーマン」の映画も歌ってくれますか?
二枚目はリクエストの多かった(2票中2票)小梅太夫氏題材のブログになるだろうと思っていたけれど、私のような初学者が手懐けられる存在でもないので奇しくも却下。小梅学を推し進めていらっしゃる先達は多くいるので興味がある方は探してみてほしい。それ以外の題材を選ぶことになるのだが、個人チャンネルもつくったのでそういうしょうもないものは吐き出せるしなぁということで今回も語れるような題材にせざるを得ないことになっている。
何だろう。
たのしかたよ
ハタ
本棚がおそらく一番語れる。
極度のミーハーかつ無計画行き当たりばったりで多動性な趣味嗜好をしているゆえ、まだ1回生も終わっていないというのにいろいろなものに手を伸ばしてきている。実験も回避できるような学部に運よくめぐり合っているのだし、読書の時間はそれなりにあると思っているからだ、という後付けの理由がある。だが読む本を一つにぐっと焦点を絞るようなことはどうもできない。神経関係のなにがしだとか、ILASセミナーきっかけのミクロ経済学とか、なんかかっこよさそうだからと選んだ哲学書だとか。小説とかもみなが読んでいそうな世界中の有名どころを買ってみたけど、んなものは後でいいやと今は本棚でほこりをかぶってしまっている。いまは分厚いハードカバーを開いて、ノートとペンでこちらの事情を無視して際限なく押し寄せる圧倒的な質量につぶれ、その波にかろうじて乗るのが心地良くてたまらないのだ。サーフィン、앙 기모띠。
ただプログラミングだとか外国語だとかの勉強は本当に嫌い。と年が明ける前の自分はそのようなことをのたまっていたが、某DALTニキの動画見直したせいで外国語習得欲が生まれ、duolingoを導入している。どうせ翻訳技術がうんたらだし、いらんやろ、とか思っていたけど自分のお気持ちを母国語以外で伝えられるのは一種の快感を与えてくれるのだと思うようになった。そのような感覚が薄れてきてもこういう表現をするのか、だとかあれとこれにはこういう共通点があるなぁという発見があったときの喜びも持ち合わせている。やはり多動。ただプログラミング言語に関しては、情報学科らしくインフォメーションでテクニカルなサムシングに手を伸ばそうとしても得られているのはTeXニカルなものくらい。できることなら大きく「背伸び」できるような勉強を、と優先してしまうなんとも稚拙な心を備えているのである。背伸び大好き。しゅびびびびーん!!!!!中学生だとか京大なんて人生設計に入っていなかった高校生時代ではCだとかPythonの勉強したいなーなんて思って、未来の自分へ託していたのでしょうが、ごめんなさいします。先日の同窓会でとっても立派になった友人に「お前はPCを作るんじゃなかったのか」と言われました。忘れています。ごめんね、ハードじゃなくてソフトを作るかもしれないよ。数年後には違うことを言っていそう。夢は形を変えていく。さて、文字稼ぎの回想。入学時にルネでちくま文庫のセールが行われており、そこで甘利先生の「神経回路網の数理」を読む。加え前期の専門の講義「数理科学概論」にて情報学研究科の先端数理科学専攻、非線形物理学講座の寺前先生の講義もあり、神経科学に魅せられる。「非」線形!?かっけぇ…。そのうち計算論的うんぬんや計算論的かんぬんといった本に手を伸ばし、Kandelの鈍器ともいえるあの電話帳とか読みたいなぁなんて考えていたわけです。小さい子が街を歩いているときに目に入ったきれい綺麗なドレスに強いあこがれを抱くような、あれ。なんともまぁあの学科はまだもの知らぬ子供を篭絡することに長けているらしい。正直数理科学も計算機科学もありだなと感じつつあります。閑話休題。ただそのような本はもちろん前期の一回のそれも最初も最初の時機には早いわけで、その本からは線形代数の行列式だとか固有値は勿論、Euler方程式だとかも顔を出してきた。前者は工学部として早々に覚悟した上でのことだったが、Euler運動方程式が出てくるとは予想GUYであった。とはいえ「計算論的神経科学」の著者の田中先生はとっても丁寧に書いてくれていたので、挫折することなく読み切れた。興味がある方は調べたら、pdf(なぜか本校の紅によるもの)が出てくるので一度読んでみては、と勧めておく。地盤の出来上がっていない読者にとってはむずかしく、高度であるはずことを万人が飲み込めるようにやさしく言い換える。歯ごたえのある離乳食はその道の素人には本当に助かる。なんか横文字でそういう言葉があった気がするけれど忘れてしまった。がまさにそれである。とはいえただ力学を修了してから読めばという後悔もあったり。一つはすっ飛ばすのは少々あぶなっかしいから。極論、哲学書を読み始めるのにHegelだとかKantとかを1番最初に手をとるのはなかなか無謀と挑戦。人に問えば十人中八人はそう考え、二人は挑戦と捉えるのかも怪しい。その無謀さに加えて、二つ目は正しいと思われる道を通ってたどり着くと「お前こんなとこにもおるんか」という高校の時の気体分子運動論を学んだ時のような感動が味わえそうだし。そうして附属図書館だとかルネの学術書コーナーとかに通い詰めていくことになる。現在絶賛帰省中であるが、地元(加古川)のヤマトヤシキの本屋に行ってみたらルネと比べて品ぞろえが終わっていた。たちのつどいで再開した友人(エレカシ、ミヤジ似)と話すと故郷高砂市に残る書店は残り一つらしい。おっきいショッピングモール内の本屋は100均に吸収され消失。宝殿駅前のTSUTAYAはニトリに乗っ取られ、とのこと。嗚呼、故郷から文化が消失してい、とトイレでその人に嘆きました・頼みは私の父行きつけのその書店と公的な施設のみ。
文字稼ぎの自語りはこの辺で。何の話だっけ。
こういうつまらないことを考えていたら再びはたと主題が思いついてくるのである。都合のいい脳みそで感謝しかない。そして本棚ではそこまで語れないらしい。目測を誤った。
急ごしらえの本題へ入る。唐突だが、みなさん、推している研究者はいるだろうか?
日本の大学では研究者、とくには教授と生徒の距離が近いらしいのでもしかしたら推しだとかそういう風にとらえている人は少ないのかもしれない。とはいえ勉強において「推し」を作ることは大事なのである。ずばり今回の主題はこれ、「推し」にしよう。
このような「推し研究者」の存在、もっと言えばその存在への憧れは大きな力となる。
研究者という存在にさしたる印象、感情を抱いていない人も多いとは思う。しかし、研究者はスターのように卓抜した存在だ。超人というより奇人変人と敬意をもって形容すべき方々もたくさんいる。彼らの生き様自体も勿論興味深く、推せるエピソードには事欠かない。むろん、研究自体の面白さが大きな魅力であること、読者諸君は理解していることと存ずる。斬新な着眼点、論文の緻密で洗練された構成、それを垣間見る我々に知的興奮をもたらす論理展開。その端々に、研究者の個性や人生が反映されている。個人だけでなく研究者と研究者の関係性も素敵だ。年の離れた二人が実は同じ研究室に同じ時期にいた、だとか知るとアツい。ノーラン監督の映画「オッペンハイマー」を見てみれば、巨人たちが山ほど登場して面白い。それに才気煥発な研究者たちのアベンジャーズのような共著も面白いし、反対に怪獣映画を思わせる熾烈な論争もとても興味深い。そんな風に紙面で―これから液晶上で繰り広げられることになるのだろうか―辛辣な応酬を繰り広げている敵対関係にある人々が、実はランチをいっしょに食べていたり、カラオケで歌うような関係だったりするのもなにか体に染み渡るものがある。「尊い」だとか「助かる」というやつである。知の探求をともにするに足ると好敵手を認める激熱な姿はまさに少年ジャンプに掲載されていてもおかしくない。だから、推し研究者の寄稿した専門誌だとかを購読し、いつか来る単著の刊行を夢想する。なかにはこういう人たちもいるらしい。「ライブ会場」としての研究会に参加し、推しの口頭発表を聴く。遠い地で学会が催される際は「遠征」もする。推しの迷惑にならないよう細心の注意を払い、発表内容や論文の感想を敬愛する研究者に直接伝え、ときには意見交換もする。他愛のない話を交わすことだってあるらしい。今度、京大でも「京大100人論文」というイベントが行われるらしい。“所属組織や専門名だけで内容を判断してしまいがちな先入観を取り除き、本音で意見交換する。”とのことであるが、「推し活」としても使うのもありである。このようなことをしている人々や私からすれば、同時代に生きる研究者は「いつでも会いに行けるアイドル」と呼んでもよいだろう。研究者によってはファンネームだってある。哲学者「純粋理性批判」を発表したカントならカンティアン。おなじく哲学者、「精神現象学」でおなじみヘーゲルならヘーゲリアン。みんな大好き「資本論」経済学者マルクスならばマルキスト。―村上春樹?― などの呼び名があるように、偉大な知の巨人きっかけで研究の道に入ったり、著作を通して研究者に私淑する人も多い。(あまり自然科学者の名前をもじったファンネームはないみたい。Darwinのダーウィニズムくらい?)現代の研究者のファンネームはあるのだろうか、
これはもう一種の文化と呼んでもいいのではないか。この文化に与している人がみな幸せでそれが膨れ上がっているのだから。だが、それだけに止まらない意義もあると思う。
積読を無駄な出費だとたたく人間が存在するらしいが、積読とは徳を積むこと。すなわち研究者を推すことは、社会的意義がある。その意義とはすなわち、著者すなわち研究者にすずめの涙かもしれぬが収入が入り、―こちらは―モチベーションも与えること、加えて学術出版を応援して支えることである。ある程度売れなければ2作目は世に出されない。至極当然、おそらくこのような思想を持っている人間は思ったより多くない
理学書、工学書ならまだしも、人文・社会科学のジャンルでは、ある程度の数字を達成するのは、かなり厳しいと思う。ルネに行くと人がいるのは右奥、手前。左奥にはそこまでいない。そもそもむっちゃ詰め込まれている。しかし、そこにファン層生まれると、購入者数が増えて持続可能性が高まる。―アニメ市場でも見ればよい。ファンの熱い要望から二期決定などよくあること。極端でしょうか。―
プレイヤーでなくともサポーターとして、研究という営みに貢献できる。いやはや、なんと心地よい環境であろうか。
最近、研究を支援する方法も増えてきている。「academist」みたいなクラウドファンディングでは、気になる研究者やテーマに直接「課金」できるようになった。スパチャだ。けど、ちょっと心配な点もある。「ファンが支えてくれるなら、公的な研究助成っていらないんじゃない?」なんて意見が出てきそうなところだ。そうなったら、研究の未来はどうなるのだろう?「役に立たなさそうな研究に税金を使う必要があるのか?」と問われたときに、納得させるのは簡単じゃない。でも、役に立つかどうかがすぐにはわからない研究ほど、公的支援が必要なのだと思う。ただ、そう説明するだけじゃ足りない気がする。これからの学術環境をどうしたいのか、もっと具体的なビジョンを示すべきだろう。
今のところ、公的助成の分配には「計量的指標」ってやつがよく使われている。たとえば、論文がどれだけ引用されたかとか、大学ランキングとか、はないか。オルトメトリクスもそういう感じだろうか。確かに、こういう数値化された評価は外部の人にもわかりやすいし、公正っぽく見える。けど、研究者の間ではこれに対する不満も大きい。分野によって事情が違うのに、同じ指標で評価するのは無理があるし、下手すると研究の多様性が失われかねない。
じゃあ、どうするか。たとえば、2015年に発表された「ライデン・マニフェスト」では、指標を過信せず、慎重に使おうという提案がされている。また、公的助成の使い道を研究者コミュニティにもう少し任せるというアイデアもある。でも、そうなると「既得権益じゃない?」なんて批判も出てくる。結局、民主性や平等性をどう守るかって話になってしまうらしい。ここで、ちょっと歴史を振り返ってみると、大学と社会の関係は時代によって大きく変わってきた。中世ヨーロッパでは大学はギルド的な組織だったけど、近代になると国家や市場との関わりが強まっていった。日本も、帝国大学から私立大学までいろいろな形態が混在して発展してきた。つまり、学術環境のあり方は一つじゃないし、時代や価値観に合わせて変化してきたのだ。この流れで考えると、「ファン文化」って面白い存在だと思う。研究者を応援するファンが増えると、研究がもっとオープンになって、外からの視点が加わる。そうなると、納税者が研究の価値を理解しやすくなるし、公的助成の正当性も強化されるのじゃないかと思う。しかも、ファンやサポーターって新しい存在じゃなくて、昔から研究者を支えてきた編集者やライブラリアン、ジャーナリストみたいな人たちとつながる広がりがある。
日本の研究環境は厳しい状況にあるけど、縮小するだけじゃなく、新しい道を探せるはず。研究者、ファン、社会が手を取り合うことで、もっと豊かな「探究の共同体」を作れる未来がきっとあると思う。
ある程度推しの教授が決まると、その人の専門分野とかも学んでみたいと思うのです。映画だとか小説とかといっしょ。京大の外だと(と一応忖度してみますが)東大の松尾豊先生や理研の甘利俊一先生が推しであります。ミーハーって英語で「following the crowd」らしい。というわけでその御師たちのその専門分野とかにも興味を持つわけです。松尾先生なら人工知能、深層学習とかだし甘利先生なら神経統計力学とか情報幾何学とかやってみたいとなる。まず人工知能。とりあえず実装しまくるしかない。わたしの大嫌いな勉強の工程である。こういうことは一人でしたくない。誰かとしたい。なので今のところは松尾先生については「因果推論」でカバーした気になっておいて、後者を主軸に勉強を進めてようと計画をすすめている。情報系の人間として、熱、統計力学、量子論は見逃せなかったので「神経統計力学!?ええやんええやん」とにこにこしていたのだが、まさか幾何学が出てくるとは思わなかった。(線形)代数学、解析学ひいては微分積分学は工学と密接に関係している一方、幾何学は数学屋さんの領分かと勝手に思っていたのだから余計に。そんな考えで入学したものだから、蓋を開けてみればどうかね。ルネに行ってみれば甘利先生の「情報幾何学の新展開」だとか中原先生の「理論物理学のための幾何学とトポロジー」だのと出会う。群とか特殊関数が題材の物理学の本もどっさりである。予想以上に広い数学が物理に適用されている。こういう(一方的に見える)かかわりを見ていると数学と物理の歴史を追ってみると楽しそうだと思う。数学のなにかしらが完成して、物理側が大きくぐーんとのびるとか。脳神経科学とニューラルネットワークの(こちらは一方的ではなく相互な)かかわりみたいに。なにかいい本いですかね。マリージョアに貼ってください。
さぁある程度「推し」研究者の強さについては語った。これで本来は終わる予定であったのだが、もうひとつ取り上げたいものが現れてしまった。最近「推し」を学術に見出すのではなく、持ち込む事例があった。X(旧twitter)をたしなんでいる方々はもしかしたら御存じかもしれない。私はそれに対して猛烈に感動している。
さてまたまた唐突だがあるスマホゲームの話をすることになる。くそほど評価の高いスマホアプリ「学園アイドルマスター」の篠澤広というキャラクターがいる。彼女は身体は弱いが頭は強い。齢14にして海外の大学を飛び級で卒業している秀才。そんな設定を持つ彼女に物理を教えてもらうという一見誰得やねんという合同誌が冬のコミックマーケットで発売された。ずばり「広に物理学を解説してもらう合同」である。扱っている分野は、量子論・量子情報・電磁気・特殊相対論・電池化学・核物理・統計力学・Lie代数・Randomness・シミュレーション仮説・Banach-Tarski定理の11分野。前半はまだしも後半はまぁニッチな話題である。Banach-Tarskiに至っては物理学ではない。これがとんでもなくバカ売れしている。どれだけバカ売れしているかというと、メロンブックスのランキングで上をみればガルクラ、マケイン、フリーレンといった2024の代表アニメの資料集くらいしかいない。どれだけバカ売れしているかというと、会場では時速500部で売れている。どれだけバカ売れしているかというと、主催の方の扶養が外れてしまいそうで増刷をストップしていたというくらいだ。普段物理に親しみのない人々(P)が「担当の篠澤広に自らの明晰な頭脳を身をもってわからされたい」というキャラ篠澤広単体での需要に駆られ手に取っているのだと考えられるが、それはとっても美しくて素晴らしい事である。
私はこの波に乗り遅れてしまったので、メロブの再販希望ボタンを押して絶賛予約待ち中である。みんなも押そう!!と思っていたら予約が完了し実際に手元にある状態である。初めての同人誌、うれしい。ぜひとも主催の方には突破口を見つけてほしいと心から願っている。さらに鷺沢人文なるものも同時期にあらわれている。―そのうちの一節のタイトルが「不条理なものは全部カフカ」とのこと。伊藤計劃の処女作「虐殺器官」のセリフであるが、SFについてでも語っているのだろうか…?「虐殺器官」も読もう― これも読みたい。
ともかくこれが何を意味するか。
「学問」×「キャラ」ジャンルの誕生である。 Happy birthday!
足りないのなら、作ればいい。数学なら「早瀬ユウカ」、暗号理論なら「黒崎コユキ」、ロボット工学なら「調月リオ」に語らせるということ。どこぞのオジ、年長者の方々に離乳食をあーんされるよりも、自分の推しにあーんされたほうがいいにきまっている。離乳食を作るのは年長者であることには変わらないが、どのようにして自分たちのもとに行きつくかというのが肝要なのである。そしてそこから興味を持ってくれた方々にはたっぷり修行を重ねた年長者の方々のおじやをふるまってもらうのである。母数を増やそう。一歩踏み出してもらいましょう。
というわけで「推し」について語りつくしてやりました。「推し」は人間に前に進む力、モチベーションを与えてくれるのです。ただ進めたとしてもやはり時間が有限で進める距離に限度があるというのが悔やまれます。そのくせ先人たちは我々をくすぐる大量の叡智を後世に残しやがりました。海賊王ゴール・D・ロジャーみたいなことをたくさんの人が現実で行っております。良くも悪くも知識というのは総じて期限というものを持ち合わせていないというのが恨めしい。そして本だけでなく電子ジャーナルもありがたいことに豊富に用意していてくれているので論文も尽きない。大学が購読している電子ジャーナルを読み漁るのは新入生に教えたいこと3選に入ります。学費の元を取れるかつ自分の身になるのにもっとも容易な手段だからです。とはいえかくいう私は大学の有名どころと理研のプレスリリース、APSで精いっぱい。たまにnatureでその力を借りている程度。GPTの力を借りているけどやはり難しいことは難しいのです。o1使ってみたいなぁ。あとそんな風に机上がごった返しているせいで日本の政治とか追えていない。若者が自国の政治を追えていないようじゃ無理か。自国の政治はね、入れとかないと。とりあえず岸田さん好きだったし、国民民主党が最近頑張っていてうれしい。
というわけで今回のブログはおしまい。本題があっちやこっちや行ってしまって読みづらく感じてしまった方もいることでしょう。ごめんなさい。次はちゃんとプロット固めてから書きます。次は何にしましょうか、ということですがおすすめのアニメーション作品についていくつか取り上げるか、1年通してお世話になった教科書を紹介するか、ってことを考えています。丁寧に読みやすく書けるかなぁという不安が残り続けておりますが、こういうのは繰り返しなのです。反復反復反復反復ぅ。
おまけ:勢多のクルー紹介で書けなかった方々の紹介文
東大戦オープンエイトのクルー紹介の際に行った事前アンケートに勢多のクルーでもないにも関わらず回答をしてくださった方々についてもGPTくんが紹介文を考えてくれました。あとでGPTくんにお礼を伝えておいてください。平井くん: 気まぐれな星を追いかける物理屋
物理工学科の中でも一際ロマンチストな平井くん。「星の運命も、自分の運命も数式で解ける!」と豪語するものの、実際は数式に追い回される日々。普段はクールで飄々としているが、突然「これだ!」とひらめいたかと思えば新しい趣味を始めたり、急に消えたりと、掴みどころのない魅力がある。ボート部ではその強靭な腕でストロークを刻みつつ、時々「川面に星が映る様子が最高だ」と詩的に語ることも。
大蔵くん: 音楽で泳ぐ哲学系ヒューマニスト
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彼のSpotifyを覗けば、音楽の沼の深さが一目瞭然。独特な選曲センスから「何を考えているんだろう」と思わせるが、実際はただ「いい曲聴きたいだけ」と笑う自由人。人と話すのが好きで、つい語りすぎることも。そんな大蔵くん、夜更けのカフェで音楽を聞きながら「科学の真髄って何だろう」と哲学に浸るのが日課らしい。ボート部では、自然とシンクロする感覚を楽しみながら、黙々と漕ぎ続ける姿が印象的だ。
長嶋くん: 冷静沈着なメカニカルドリーマー
物理工学科に身を置きながらも、どこか感傷的な一面を持つ長嶋くん。日々実験と数式に向き合いながらも、心の片隅で「もっと人の心を動かしたい」と思っている様子。その証拠に、彼の好きな曲はどれも心にじんわり染みるものばかり。完璧主義な一方で、夜になると「誰か俺の心もFixしてくれ」とぼやくことも。ボート部では力強く漕ぎながらも、スムーズなチームワークを意識する几帳面さが光る。
西尾くん: 法と感性を両立するメロディック・ロジシャン
法学部で論理と理屈を学びつつ、音楽では感性をフル稼働させる西尾くん。指揮を執る立場からか、若干上から目線な発言が目立つが、彼にとっては「すべて効率化のため」というスタンスらしい。何かを話し出すと止まらない熱血ぶりで、好きなものについて語ると気づけば朝になっていることも。几帳面な性格で、身の回りは整理整頓されているが、音楽のプレイリストだけはカオス状態。友人たちは彼を「知的と感性のバランス職人」と称している。ボート部ではコックスとして的確な指示を飛ばし、漕手たちのペースを完璧にコントロール。本人は「俺の声がチームのエンジン」と信じてやまない。
井出くん: 熱さと冷静さを使い分ける守護者
井出くんは、地に足のついた堅実派…かと思いきや、時折見せる熱血な姿に周囲は驚かされる。特に音楽の話になると目を輝かせて語りだし、「UVERworldは人生」と言い切るほどの情熱を持つ。その一方で、冷静に物事を分析するスキルも高く、熱さとクールさの絶妙なバランスが彼の最大の魅力だ。ボート部ではその情熱をオールに込め、黙々と水を掻く姿が印象的。周囲からは「ブレない漕手」として信頼を寄せられている。