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道標

お久しぶりです。三回生漕手の小倉茜衣です。

もう三回生になっていることに驚いています。三回生前期は授業がたくさん入っており、その上、卒業に必要のない興味のある授業を取ったことでとても忙しい時間を過ごしています。やってもやっても課題が降ってきます。一週間が一瞬で過ぎていって悲しいのか嬉しいのかよくわからない気持ちになることも多々。今は東大戦クルーに乗らせて頂き、毎日試行錯誤を繰り返しています。絶対勝つぞ。

 

そんな今回はボート部に入ってから今までを書きたいと思います。なぜこの内容書こうと思ったかというと、一学年下の後輩と話していると、私の一回生の頃の話を当たり前ですが知らず、驚いていたからです。なので今回のブログは少し長くなるかもしれないです。興味のある方のみどうぞ。

 

私は4歳から7年間水泳をして、中高では陸上部に入り、大学ではボートをしています。この前の東大戦選考では先輩に追いついてやろうと毎週2000、多い時には週2で2000を引き、毎回ベストを更新しました。悔しくも上回生に追いつくことはできなかったけど、食らいつきました。それだけを聞いたらずっと体育会系で普通にボートを頑張っている人に見えるんだろうなと思います。別に自分が普通ではないと思っているわけではないですが、何不自由ないボート生活を送ってきたわけではないです。これから書くことがいつかの誰かの励みになるならうれしいなと思って書きます。

 

まず私は生まれつき身体が弱く、小さいころは夜、喘息で息ができないため寝れず、病院にあるような吸入器を家に買って夜中に吸入を数十分し続けるということは日常でしたし、寝れないまま幼稚園に行ったことも多々ありました。その喘息をましにしようと親が始めさせてくれたのが水泳でした。特に自分の意思もなく、嫌がっていたのも覚えています。ただ私の性格上途中でやめるということは嫌いでできないので続けました。するとスポーツというものの楽しさに気づいてしまい、水泳を7年間も続けましたし、中学でも運動部に入りました。ただ喘息は少しましになったものの全く治っていません。何なら、心臓から肺に送られる血管が細く、運動しはじめに血流がよくなると、詰まって肺が激痛になり息ができなくなるという症状もあります。

 

この状態でボート部に入りました。入った経緯は私の最初のブログに書いていると思います。新人期に一つ事件が起こりました。合宿所に救急車事件です。金曜夜のサーキットで肺に痙攣が起こり、息が上手くできなくなり、全身がしびれてしまいました。救急隊の方が来てくれたのですが顔もしびれて目が開けられないので何人いらっしゃったのかもわからないし、呼びかけに対して全然違う方向に返事をしていた可能性もあります。その後はコーチや同期の助けもあり、回復しました。が心配なので病院に行ってほしいとコーチから言われ、かかりつけの病院に行きました。そこではこの身体でボートをしていることに大反対され、迷っていたヨット部への転部を勧められます。先生曰く、心臓の痙攣ならAEDで何とかできるけど、肺が痙攣したら医者もどうしようもできない、ほんとに死ぬしかないから大学の部活で命を懸けるのはやめてくれと言われました。これは結構私にも響き、やめるしかないかと思いましたし、コーチに話したら京都レまでは漕手をやらせてあげるけどそれ以降はやめよう。秋季はCOXで出ようという話になりました。この時くらいに第74回の東大戦の観戦に行きました。そのレースを見て来年は絶対勝ってやる、とボートを続けることを決めましたが、来年出ていたとしても漕いではないんだなと思うとすごく悲しくなりました。だからこそ75回東大戦では自分が漕いで勝てたというところが自分の中で本当にうれしかったからあれだけ喜びました。そうしてボート部をやめるという選択肢はなくなり、COXという道に進み始めました。夏休みの練習を乗り越え、秋季選考がやってきました。そこでコーチに残念だけど小倉を選考に出してあげることはできない、と言われました。分かっていたけど悲しくてすごく泣きました。でもどうしようもないので受け入れて残り少ない漕手生活をやり切ろうと思っていました。がみんなが2000を引いているときに何もできないのが悔しくて引かせてほしいと頼み込みました。つまり選考に出させてほしいということです。レート24を守るならいいと許可をもらいました。これが私の全てのメニューレートが低い現象の始まりです。秋季選考で2000を引きここでやめたくない、もっと成長したい、と諦めきれず、秋季も漕手で出たいとまたまた号泣してお願いしました。毎回空吾さんを困らせてたと思います。すみません。結局秋季も漕ぎ、またまたもっと上手くなりたいと思って今まで続いています。秋季で晴香さんに「私漕手続けていいんですかね」って聞いたのを覚えています。晴香さんは当たり前のようにもちろんいいよと言ってくれました。嬉しかったですありがとうございました。

 

冬季をコーチの支えで乗り切ると、シーズンが来ました。これにあたって主将の晴香さんとの面談がやってきました。そこでインカレの目標を聞かれた私は、分からないと言いました。正直このエルゴタイムでインカレに出れると思えないし、まずは自分が強くなることが必要なので、自分のペースで頑張りたいと言いました。みんなに並ぶタイム出すにはほんとに死ぬんじゃないかと思っていたのもあります。この数か月後2000のベストを10秒以上更新し少し自分のボート生活に前向きになりました。

なんだかんだあってありがたいことにインカレにも出させて頂き、その姿を見ている後輩は私がCOXになりかけていたなんて想像しないだろうなと思います。こんな私でも何とか今は東大戦対抗クルーとしてボートを続けています。自分のペースって便利な言葉で、良くも悪くもなると思います。私が自分のペースで頑張って何とか上回生と戦える位置に来たのはメニューを絶対さぼらず、全力で毎回追い込んでいたからだと思います。特に2minoffのひろこさんメニュー。また、そうやって全力で頑張れる環境をふくみさん、紘子さん、よしまささんが作ってくれたからだと思います。

以上のことを経験してきたからこそ、私はレースに出れるということへのありがたみを感じる点は誰にも負けないと思います。インカレや新人戦ではあの小倉が整調でレースでるなんてな!と中本さんに言われました。コーチも想像していなかっただろうし、私も想像していませんでした。

 

私の4年間の目標はエルゴ8分切りです。これはありきたりな目標に聞こえるかもしれませんが、私には別の理由があります。それはドクターストップもかかって、漕手をやめかけていた人間が8分を切ったら夢あるじゃんということです。誰かの励みになれるんじゃないかなと思っています。

 

私は昔からそういうことにモチベーションを見出してきました。高校進学でも、私の地元から膳所に行く人なんて私の5年前に1人いたかいないかみたいなレベルでした。ここで自分が膳所に行けば後輩の道標になれるんじゃないか、行ってみようと思えるんじゃないかという願いがありました(もちろん同級生にライバルがいてくれたというのもある)。実際私の代から少なくとも4年連続で膳所に輩出されており、嬉しかった記憶があります。今回もいつか誰かの道標になれればという思いを持って頑張ります。

 

それではまた。いい報告ができるよう頑張ります。ちなみにハンバーグは作りました。

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