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勉強、始めました。

冷やし中華はまだです。

 

こんにちは、2回生女子漕手の阪上由夏(さかうえゆか)です。

早いもので、もう6月ですね。以前は「早いもので~」って言う人って、その人がゆっくり生きてるだけなこと多いんじゃないかなあって思っていましたが、そういうの刺さる側になってしまいました。悲しいです。

新人の子たちは元気ですね。見ていると、1年生の頃を思い出させられます。今は「6月なんか、2年生なってまだ2か月やん!」と思いますが、去年は書いているこの日までにちょうど半年くらい生きた気分で毎日を過ごしていました。なんでちょうど半年かというと、ちょうど今書いてる6/15に琵琶周のことを結構長い時間考えた記憶があって、その過程で6/15までの気疲れを半年分と定義したからです。嘘です。でも、もしそうなら水の沸騰温度みたいでちょっといいですよね。

単純に、琵琶周をだいたい文化祭くらいのイベントと位置付けてたから、その前提に立てば琵琶周が成立するくらいの仲の良さ=文化祭のときくらいの仲の良さになった⇒半年分くらいの交友関係を持ったってことだと認識しただけなんですけど、多分これ意味わからないと思うので理解しなくてもいいですよ。笑 とにかく、充実してて楽しかったな~!毎日疲れ切れたし!と、書きたかったということです。

今日好き。にハマりました

明日、中川先輩とお昼を食べに行きます。大好きな先輩なので本当に嬉しいです。明日は祝日です。そんな中川にこさんは、この間梅澤さんを私の心の友ということにしてくださいました。梅澤さんは「阪上、馬鹿にされてるよ」と教えてくれましたが、人を心の友にして遊ぶなんてひどいことをにこさんはしないので、これは嘘だと思います。冗談です。

最近、上回生漕手とも上回生スタッフとも話す機会が増えていて嬉しいです。2回生になることに少しびくびくしていたけど、まだまだ下っ端気分で甘えさせてもらっているなと感じます。と同時に、つい2か月前まで2回生だった小倉さんや石田さんを見ると、去年よりもあっという間になるこの1年で(しかも、すでに2か月が経過したこの1年で!)3回生になってしまうことへの恐ろしさ、寂しさも感じます。やっぱり私は2人には追いつけないなあと思うし、大なり小なり同様の感覚が各学年で繰り返されている可能性を思えば、だから体育会系は密に上下関係が築けるのかなと思ったりもします。もちろん、いわゆる体育会系らしい、とネガティブな意味で用いられる「上下関係の厳しさ」はボート部にはあまり感じていないけど、だからといって無法地帯になるのでない自浄的な敬意は艇上以外の部活の時間からも生まれるのかなということです。

告白シーンを倍速で見るのはあまりよくないそうです

んー、文章を書くのって難しいですね。やっぱり、なんだかんだブログはブログだしなあと思って少し気を抜いちゃうところがあります。想定する読者層として主たるものが身近な先輩なので、甘えて書いちゃうんですよね。なんだか、特別なこと書こうとしてたのに忘れちゃいました。いつもこんな感じで甘えさせてもらって、ありがとうございます。

こうやって、合宿生活という互いが密接にかかわりあう環境下で、少なくともコミュニケーションに限って言えば私にはかなり向いている条件下で、比較的楽に、頑張らずに会話しちゃうのやめたいです。自分のことを理解してもらいながら、自分では相手のことをそこまで理解せず、相手が私を理解してくれることに甘えてコミュニケーションをとってしまうの、いやだなあって思います。やめたいんだけどなあ。あまり、やめられないです。

 

自分が、冒頭に触れた新人期にたくさん疲れたのは、運動に慣れていなかったのもあるけど、一番は頑張っていたからだと思います。私には…といっても、他の人もみんなしている努力だと思うけど、人と会話するには相手の気持ちを想像する努力がいっぱい必要で、私はそれを長いこと怠ってきてしまったから、あまり、体力的な意味で、効率よく会話できません。相手の気持ちを傷つけないで会話したり、行動したりするの、本当に難しくて、本当に本当に疲れちゃう。だけど、疲れちゃうからって言って、自分は疲れないで相手が傷つくようにシフトするのは違いますよね。私は、だから頑張っていっぱい、できるだけ早くにできるだけいっぱいの量疲れてしまって、疲れ切って、疲れ慣れて、体力も燃費もみんなと同じになれればいいなと思っていました。めちゃくちゃ頑張らないと馴染めないハードな環境で長い時間過ごすことで、さっさとその環境に慣れてしまって、早く頑張ってより良い自分にならなくちゃって思っていたんです。だから、大学に入った時は、サークルに入るならできるだけ頑張らないと会話できないような人たちがたくさんいて、だけど同時に、頑張りきれないっていうか、頑張っても失敗しちゃうことはあると思うんですけど、そのときにリカバリーさせてくれるくらい優しい人もいっぱいいるところがいいなって思っていました。それから、私以外のみんなは、会話頑張るぞ!と思って生活してはいないと思うから、会話とか関係なく、頑張るぞ!って空気のところがよかったの。これだけだと私の都合すぎるから、一応、私がいることでちょっとでも元気になってくれる場所だと嬉しくて。いろんなたまたまのおかげで、部活に入れました。エイト出してくれて、本当にありがとう。

こんなにも頑張りたい!と思った新人期でしたが、あんまり最近、頑張れなくなってしまいました。疲れたのかもしれないし、大学入学フィーバーが落ち着いてしまったのかもしれないです。だったら分別なんてずっといらなかったけど。

 

ずっと、学部4年間の自由さに振り回されてる学生生活だなと思います。大学時代って、自由すぎて、自由っていう看板に気圧されてしまいませんか?私は、なんでもできる時間だから、なんでもやらなくちゃ!って思い過ぎてる気がします。だってー、一個のことに集中するの難しいんだよー。全部好きなんだよー。全部大事なんだよー😭でもね、なーんにもできないの。🥲

 

のーんびりゆっくり生きて、気の強いちゃきちゃきした自分をやめてしまって、みんなの気持ちがわかる優しい私になりたいです。みんなはすごく優しいけど、私はみんなのような優しさとちゃきちゃきな頑張りを両立できないのです。だけどなーー、頑張って生きられないことへのコンプレックスもすごくあります。曲がりなりにも、京大に入らせてもらえるくらい、頑張ってガツガツ生きることが得意な方だったはずなのに。それに、頑張らない私に誰がついてくれるでしょうか。頑張るのをやめて、みんなの気持ちがわかるとき、わかることのできるみんなは誰?そんな人はみんなと呼べるほどいません。いるならこんなことで悩まないもの。

 

人ってこうやって、大人になるにしたがって自分の足りないところにどんどん気づかされるんでしょうね。だから、足りないところを埋める分をすごく頑張ってしまって、得意なところの輝きが、あんまりそればっかりは磨けないようになってしまって、結果的に同じようなつまらない大人になるのかもしれません。

だけど何より言えるのは、つまらない大人をつまらない大人としか受け取れなかった子どもの自分に囚われすぎなくてよいということです。すると、何が正しいのか本当にわからなくなりませんか?真理って、難しいですね。