こんにちは!2回生の野口比呂です。前回のブログからかなり時間が空いてしまい申し訳ありません💦ブログに書くネタは山ほどあるのですが、…
いきなりですが、今年の4月以降、僕は到底予想もしていなかった生活を送っています。簡単に僕の去年を振り返ってみると、1回生の間にはボートの大会として、ナックルレガッタ・京都レガッタ・秋季・東大戦などがあったわけですが、この順に僕は、大学の講義・中耳炎・悪天候によるエルゴ大会・足の打撲といった理由でボートを漕ぐ機会をとことん逃してきました…ということで入部以来1年間全くまともなレースに出られなかったわけで、ここまでは「全然大会出れてない運の悪い奴」程度の笑い話で済んでいたと思うのですが、4月に僕の2回生の半年間の生活をガラリと変える事件がありました。今回のブログは、この事件の概要とそれ以降の僕の生活について記したいと思っていたのですが、事件について書き終えた時点で十分な量になってしまったので、事件以降の生活については次回のブログのネタにとっておこうと思います。
※以下で事件にかなり詳細に記すので、事故や怪我、治療などが極度に苦手な人は読まないことをおすすめします!(多分そんなに遠くないであろう)次回投稿の、事件以降の生活についてのブログをお待ちください♪
2025年4月17日木曜日、2回生の大学の講義が始まってまだ2週目、講義へのモチベーションも高い頃、僕はいつも通り早朝練を終えて2限目の講義に行くために自転車を漕いでいた。ちょうど大学までの道のりを半分ほど走ったあたりだろう、逢坂山と呼ばれる峠のを下り終え、左折するため徐々にブレーキを握りながらスピードを落としつつハンドルを切った直後には、僕の視界には灰色のコンクリートしか入らないほど間近に高架のコンクリート壁が迫っていた。衝撃により自転車は1メートル以上後方に吹っ飛ばされただろうか、僕は抗う間もなく正面からコンクリート壁に突っ込んだ。自分の体を確認しつつ、うつむきながらフラフラと立ち上がると、自分の顔からぽたぽたと血がアスファルトの地面に滴り落ちた。頭が真っ白になり、事態の深刻さを悟った。体のどこが痛いのかも分からないほどに全身が痛むような気がした。とりわけ右手と両膝はじんじんと痛み、右手は動かそうという気にさえなれない。近くを歩いていたおばあさんが駆けつけてくれ、「大丈夫?」と僕の顔を覗き込む。おばあさんは「あら大変!」と、驚いた顔でティッシュを差し出してくれた。何となく口元に当てると、一瞬にして白色のティッシュは真っ赤に染まった。僕は自分の顔の状態が心配で、「顔、どうなってますか?」と訊きたかったが、緊張と興奮のせいで驚くほどにうまく声を発することができない。おばあさんは急ぎの用があるそうで、ティッシュだけ丸ごと僕に与え、どこにやら去ってしまった。何とか自転車を手に取り、近くの建物まで数十メートルほどヨボヨボと歩くと、幸いなことに何やら作業をしている男性が目に入った。傷口を洗うために水道を貸してほしいことを伝えると、「大変やったなー」と言い、こころよく作業場の水道を貸してくれた。その水道の正面には鏡があり、ここで初めて自分の顔を確認する。鼻下が1センチほど裂け、右の頬から耳にかけて広範囲にわたって擦りむいて出血し、少し口を開けると上前歯の1本は根元付近でひびが入り、下前歯の1本は欠けていた。事態の深刻さは予想していたものの、その予想を上回る痛々しい傷跡を目に絶望を感じながら、一周回ってどこか冷静さも取り戻していた。さすがに病院に直行すべきだろうが、自力でたどり着く自信がなかった僕は、男性に無理を言って近くの総合病院まで車で送っていただいた。(今思うと救急車を呼ぶべきだったが、自転車の単独事故で救急車を呼ぶという発想はその時の僕にはなかった。)
病院で待っている間にも右手首は大きく腫れあがっていき、骨折経験の無い僕でも折れているんだろうなと分かるほどだった。案の定レントゲンの結果右手首は骨折しており、ギプス固定、鼻下は2針縫合する治療をしてもらった。医師からは「ずれているけど手術は多分要らないと思うよ」と言われ、ほっとした。
父親に連絡すると、実家からすぐに駆け付けてくれたが、こっぴどく叱られた。僕は当分右手が使えないことを覚悟し、今後のために、右手が使えるようになるまで箸は左手で持ち、どれだけ時間がかかってもできる限りスプーンなどは使わないことを心に決めた。
数日後下宿近くの病院の外科で再度検査を行った。今思うと、この日は骨折による発熱が38.5℃近く、痛みも最も強く、寝れないうえ、起きているときさえじっとしていられなかった。医師は、「結論から言わせてもらうと、手術が必要です。」と断言した。ポカーーン……ええ??!!( ゚Д゚)「手術要らないんじゃないの__???」3秒ほど思考が停止した。実感が湧かず、少し経つと冷静さを取り戻した。そして医師は、「少し治療しますので、お母様は外に出ていてください」と母に告げ、僕の腫れあがった手首に麻酔針を刺した。続けて「骨をもとに戻すために腕を引っ張るので結構痛いと思うけど、頑張ってくださいねー」と言い、僕の手先を持って、とてつもない力で引っ張り始めた。コンクリート壁に衝突して骨折した瞬間よりもはるかに痛く、今まで経験した中で最大の痛みだったかもしれない。本当に関節が抜けるのではないかとひやひやすると同時に今時こんな強引な治療があるのかと困惑した。小さなころから注射などで泣いたことがほとんどないと言われ、性格上痛みや苦しみで悲鳴を上げることはほとんどない僕だが、さすがに声を出すのを耐えられなかった。おそらく1分ほど引っ張り続けた頃だろうか、先生が引っ張る力を緩め、やっと終わったと思い安堵した。しかしほっとしたのもつかの間、僕の腕を凝視するなり、先生は「若い子ってのは筋肉が固まるのが速いのかなー?すぐ元にもどっちゃうねー。ごめんねー?」と、さっきよりも強く引っ張り始めた。絶望。地獄のような数十秒だ。施術台の上でうずくまりながら唸り続けた。さっきよりマシになったのか、先生は妥協したようにギプスを巻き始めた。やっと本当の安堵を手に入れられた。この施術のおかげなのか痛み止めの薬のおかげなのかは分からないが、痛みはかなり良くなった。
という感じで数日後に全身麻酔のもと手術を行ったのですが(初めての全身麻酔はすごくしんどかった…)、入院していた時のことを書くとさらに長くなるので割愛します。手術したおかげで回復は早いらしく、骨折直後は右手が指先から手首までほとんど動かなかったのが、2週間後には指先がほとんど動くようになり、1か月後には手首も問題なく動くようになりました。手のリハビリとして中学生のころまで習っていたピアノを久しぶりに本格的に弾き始めたので、もしかしたらこれはかなり良い効果があったのかもしれないなと勝手に思っています。左手箸縛りトレーニングのおかげで2週間後には左手で結構上手にご飯を食べられるようになっていたのに、そのころから徐々に右手も使えるようになり、左手で食べられる恩恵はあまり受けられませんでした。僕の努力はどこへ行ったのやら…まあ右手が使えるようになるに越したことはないんですけどね。3か月近くたった今、まだ手首への負荷の制限はあるものの、日常生活は不自由がなくなり、不自由ない生活をありがたく感じています。
<余談>
ここまで読んでいただいたみなさん、ありがとうございました_(._.)_
今回の事故のために、僕は3か月間の右手に負荷のかかるトレーニング禁止が宣告されました。この時点で僕の朝日レガッタと東大戦、インカレ出場までが消え去りました。これまでの大会への不参加は短期的な理由によるものだったのですが、今回は大事になってしまいました。中耳炎→打撲→骨折、明らかに理由が深刻化してます…お祓いにでもいったほうがよいでしょうか、、、?次さらなるトラブルがあってはシャレになりません(泣)。もっと神仏を敬った方がいいですかね。気を付けて生きます。石山まで自転車で来るみなさんも事故にはくれぐれも気を付けてくださいね。人と車だけ気を付けていればいいと思っていたら痛い目見るかもしれません…
当初こんなに長々と書くつもりはなかったのに、いざ書き始めたらここまでで結構長くなってしまって自分でもびっくりです。こんだけ書けるならもっと早くブログ書けや!って感じです。反省いたします。
僕としては事故以降の生活をメインで書きたかったのですが、もう疲れてしまったので今回はこのへんにしておいて、次回の僕のブログは、僕が事故後の3か月間(というか術後1か月はほとんど安静にしてたので、実質2カ月間)について記していきたいと思います♪こちらは明るい話なのでお楽しみに…? (写真は、一週間ほど前、ふと滋賀県守山市にて夏を感じた空を撮影したものです。ブログの内容には全く関係ありません。)