みなさんこんにちは。はじめまして。1回生漕手の神代こころ(くましろこころ)です。
わたしは文章を書くのが好きで、中高生時代にいろいろな場面で文章を書いたりそれを多くの人に聞いていただいたりする機会に恵まれてきたのですが、大学生になってから自分の書きたいことについてじっくり書くのはこれがはじめてです。しばらく書かないうちに自分のスタイルを忘れかけて単調な文章になりそうなところを、改善していくなら一度大きく変えて少しずつ調整したほうがいいというボート(ひいてはスポーツ全般)に対しての先輩方のアドバイスを応用し、読んでくださる方への配慮に欠けるくらい自分色の強い冗長な文章になりそうですが、お時間のある方はお付き合いいただけるとうれしいです(すでに一文が長すぎて悲しいです)。内容は、いま振り返っておもう、ボート部に入った理由を書こうと思います。
わたしは、走ること、長時間ハイレベルな集中力を保つこと(保ちつつ勉強すること)などしんどいこと全般が嫌いで、もしそれをやっているときがあれば、そのことが好きになってしんどく感じなくなったときくらいです。逆に好きなのは場所問わずぼーっとしている時間です。だから基本的に、しんどくない、好きなことしかやってきませんでした。にもかかわらず、ボートのボの字も知らなかった(高校にボート部があったのでホくらいは知っていたのかもしれません)状態で走ったり筋トレしたり集中力高く継続したりするばかりの部活に入ってしまったのですから、理由はたくさんありました。それはもう挙げだしたらきりがないくらい。でも、理由がたくさん出てくるときというのはたいていどうしても譲れない理由を補強するためであって、その「どうしても」が何なのかを考えていました。
いろいろ考えて辿り着いた差し当たりの答えは、「わたし」とは何かを考えるためということです。「わたし」が何者かということを考えるのはしばらくわたしの人生のテーマになっています。高校生活の最後に書いた4500字超の気が遠くなる長さの文章もそのことについてであり、要約できるならそんなことにはなっていないのでここでは割愛しますが、「わたし」探しにあたって、人生の選択の際に自分の指針となってきていることがひとつあります。
それは、The Other Sideだと思う方を選ぶことです。自分の行く場所、行かない場所、帰るべき場所を自分で決めて自分の責任で歩いていく歳になってもやはり、自分の納得できる「わたし」が見つかっていないのですから、世界や人生において自分がもといる側に居続けてもそれらしい「わたし」に近づける気はしないわけです。そしてあたらしいからと言って、Another Sideでもいけない。「わたし」が待っているTHE Other Sideでないといけない。そういう意味で、ここしばらく自分がThe Other Sideだと思って選んできたものは、ふりかえると、わたしを構成するとても大切な要素ではあるものの、Another Sideたちであるような気がします。選択は大正解ばかりだったと思っているし、大切な糧であり続けるけれど、圧倒的なTHEが足りない。
そんななかで、現時点になってもTHE Other Sideではなかろうかという期待がわたしの中で膨らみ続けているのが京大ボート部です。京大ボート部での生活が今までの自分と違うというところはたくさんあるけれど、自分にとっていままでの人生との圧倒的な違いは、神様がいないことです。
別に特定の宗教を信じているわけではないし、そういう存在が視えたりするわけでもないですが、わたしは相当真面目に神様を信じています。そしてその神様が、ものすごく自分のことを好いてくれていると本気で思っています。
その神様のおかげで、わたしは人と同じ努力でも人より有難い結果が得られたり、人より少ない努力で人と同じ結果が得られたりする。たとえば、みんなと一緒の勉強をしていてなかなかいい感じの成績が返ってきたり、テスト勉強サボったなというときにたいてい案外何とかなったりする。そういうときに神様にありがとうと思ったり、神様今度ばかりはお願いしますと祈ったりしています。
逆に、神様はわたしのことを好いてくれているのだから、自分のできるところでは裏切るわけにはいきません。だから当たり前のことかもしれないけれど、人が見ていなくても(わたしの神様は見ているのですから)善くないことはしないことや、自分自身で偽善だと思ってしまうこともあるけれど、少しでも善に近づけるようにすることを心がけて生きています。
つまり、凡庸な表現に戻すとするならば(普段はほんとうに神様だと思っているのですが)、自分の置かれた環境、状況、その他さまざまわたしを取り囲むものたちすべてをひっくるめて「神様」と呼び、自分の言動努力如何とはずれていそうな恵まれたことは「神様」のおかげだと感謝して、その代わりに自分のできることをいつも「神様」に還元していく。そうやって「神様」と良好な関係を築いているつもりです。このカギカッコつき神様を当てはめていくと、上のヤバそうな文章も案外当たり前のことで、自分の気づかないうちにしている言動がいい感じに報われる努力になっているのかもしれませんが、とにかくそれらはわたしにとって神様なわけです。
ボート部にその「神様」がいないと書きましたが、厳密にはボート部をしているわたしの中に「神様」がいないという意味です。自分がまわりの人や環境に恵まれているとは痛いほど感じていますし、そんな「神様」に少しでも何か還元したいと思っていて、そういう気持ちで日々過ごしているのはボート部でも変わりません。でも、知らず知らずのうちに助けてくれるいつもの「神様」は、定位置のわたしの隣にはおらず、それが分かっているから自分に訪れる結果や成果について「神様」に願ったり助けを乞うたりなどしないわけです。
努力したって人並みにも報われないかもしれない、むしろその可能性の方が高い。報われたとして、それが何になるのかなどわからない。そんな、いまのわたしには意味などないかもしれないことのためにやるには、エルゴも乗艇も筋トレも食トレもあまりにキツい。毎回のように「辞めたい」が過る。
なのに心の奥底で、苦しみも含めて美しい奇跡(ギフト)に思え、手放さないでいたいと思ってしまう──。
そんな渇望が欲しかった。渇望を渇望して、わたしはボート部に入ったのだと思います。わたしの人生の「わたし」探しvol.大学生 のテーマは渇望であるようです。
小さい頃からまわりには、自分の才能を磨いて、何らかで一番になろうと本気で向き合う人が、一人じゃなく何人もいるという、思い返せば恵まれた環境でした。いちばんってかっこいいなとわたしも思ったけれど、自分でその何かを見つけたり、出会ったものをその何かに変えようとしたりすることはありませんでした。でもいま思えば、あるものに出会って、それを好きになって嫌いになって、それのためにすべてを捧げて、自分のどこかが壊れるくらいに取り憑かれて、喜びや悲しみ、不安と期待、絶望も絶頂も何度も味わい繰り返してしまう、そんな人に憧れていたし、そんなものに自分も取り憑かれてしまいたいと思ってしまったのでした。
読みやすい長さ、内容にするにはもう遅いので、せっかくだからもうひとつわたしのアイデンティティを。
わたしの母校(高校をそう呼んでみたかった)では、一学年につき一つ、入学式で名前が与えられ、その言葉を大事にしながら三年間を送るのですが、わたしの学年は穂(みのり)でした。「二十五期生は穂。大地のめぐみ。みずみずしくはずみ、やわらかくゆれて。」すべて含めてとても好きな言葉です。
この言葉をなぞって表現するならば、わたしのこれまでの人生は、雨に打たれ風に吹かれ、台風を耐え凌ぎながら、雲の向こうには必ずお日様(神様)がいると信じてみのりに繋げようと試みることは確かにあったのでした。一方で、自らで自らを乾かせ、苛まれながらも渇きが続くことさえ望んで、精いっぱいの酸素を吸うことはなかったのかもしれません。でも、たしかに渇きは苦しいけれど、恵みの雨を願って待つのではなく、カラカラに乾いたときだからこそ吸える酸素があり、張れる根があったのでした。渇きの中で根性で根を張って吸い込む酸素は、なんて苦しく刺激的でクセになるのでしょうか。神様に頼ることなくいつか不意に訪れる雨は、どんなに染み渡ることでしょうか。
ここまで読んでくださったのは、相当物好きでわたしと趣味が合う素敵な方か、意味のわからん1回生の拙文さえ読み通してくださるほどの熱烈な京大ボート部応援団の方だと思います。お付き合いくださりありがとうございました。
優しすぎる環境で育ってきた若苗なりに、渇きに向き合い強く根を張って、ボート部のみなさんやボート部をいつも応援してくださっているみなさまへ(物好きなみなさまには、もう少し筆の調子を取り戻すことで)お返しできる穂を実らせていきたいと思いますので、今後とも暖かい応援、ご支援をいただけるとうれしい限りです。これからよろしくお願いいたします。
