日本語は難しい、と言ってみる。いやむしろ、言語表現は難しい、と言ったほうがいいかもしれない。というのも、私はテレビなどの表象にあらわれる「日本語は難しい」を外国人に強制させる風潮が嫌いなのだ。漢字は難しいだろうが、話す日本語は特段難しいとは思えない。もっとも世界に数ある自然言語の中でどれか一つだけが特別難しいというのはおかしな話だ。でもテレビでは、あるいは日常のなかでは、日本語は特権的に難しいというのを自明の真理のようにして外国人に「日本語が上手ですごいですね」「日本語難しいでしょ」などと言い放っている。言われるほうからしたら失礼だと私は思う。そんな風潮が嫌なのだ。
話がそれ過ぎた。日本語でもなんでも言語表現は難しい、そういう話だった。そんなことわかりきっているし、いまさら何を言ってもしかたがない。それはそうだが、ここは京大ボート部のブログ、rowingに関する言語表現で難しいと感じることについて少し述べてみたい。
それは何か。端的に、「自動詞と他動詞」の問題だ。他動詞とは格助詞「を」を伴う目的語をとる動詞であり、自動詞とは目的語をとらない動詞である。日本語には自動詞と他動詞で対をなす動詞が多い。「倒れる―倒す」「冷える―冷やす」「壊れる―壊す」といった具合だ。これがrowingでどう問題になるのかと言えば、以下のような場合が悩ましい。
- エントリーフェーズにおいて、「ブレードが入る」と言うべきか、「ブレードを入れる」と言うべきか。
- リカバリーフェーズにおいて、「体重が乗る」と言うべきか、「体重を乗せる」と言うべきか。
おおよそわかっていただけたのではないだろうか。このようなことは他の局面にも言えるだろう。言葉や見た目に囚われず良いイメージと感覚でボートや自分と対話するべきだとは言え、舵手でありコーチのようなこともしている私としては、どう言葉にすべきか、は切実な問題なのだ。
そもそも、自動詞と他動詞は何が違うのか、何を意味するのか。形式的には、前述のとおり格助詞「を」を伴う目的語をとるかどうかで判断される。意味的には、自動詞は「自然現象を表すときによく使われ、物事が自然に生じることを表し」、他動詞は「人間の行動が起点となり、物事を引き起こすことを表」す。(原沢2012)原沢はこの違い、対応関係を、端的に「変化と動作という関係」と表現している。つまり、「自動詞はある現象が生じる(=変化する)のを、他動詞は人間がある現象を引き起こす(=動作)のを描写」するのだ。(原沢2012、()及びその内部は引用者)
これを先に挙げたrowingに関する事例にあてはめて考えてみよう。自然に変化が生じているのか人間が動作して現象を引き起こしているのかと問われれば、間違いなく後者だろう。それでは一件落着、他動詞を使えばよいとなろうが、それでも納得できない、自動詞が使いたい自分が存在する。それはrowingの特性、すなわち「どの局面においてもリラックスし艇に対して無駄な力を無駄な方向にかけない」ことが求められることに由来する。私が他動詞表現を避けたくなってしまうのは、それが動作の作為性、仰々しさを表しているように感じてしまうからだ。しかし自動詞をそれだけで使うと動作を消去してしまいrowing動作の表現として意味をなさない。どうしたらいいものか。
ここで参考として英語の表現を見てみよう。以下はBritish Rowingのサイトの技術を解説するページの一節である。
This is the start of the drive phase of the stroke, when the blades are placed in the water (called ‘the catch’) and the boat is driven forwards using the large muscle groups in the legs and body. The shins are vertical, the back straight and leaning forward and the body closed up on the thighs. All that is needed is for the hands to lift upwards a little more, and the blades will be fully ‘locked’ in the water.
ここで注目すべきは” the blades are placed in the water(called ‘the catch’)”と” All that is needed is for the hands to lift upwards a little more, and the blades will be fully ‘locked’ in the water.”である。前提として、自動詞と他動詞で対になるものが多い日本語に対して他動詞表現が優勢な英語では、日本語で自動詞で表現することを他動詞の受動態によって表現することがある。例えば「興奮している/be excited」というように、だ。まず前者について。これは形式的には受動であるが、日本語に訳せば「ブレードが水中に入っている」というような意味であり、自動詞的表現と言える。これがすなわちキャッチであるとしているのも興味深い。次に後者について。訳せば、「必要なのは手をもう少し上にあげることだけであり、そうすればブレードは水中に十分に「固定」される」といった表現になろう。ここでは動作の小ささ・簡素さを強調した上で―逆から考えれば、動作の作為性・仰々しさを否定した上で―、またも受動態を用いて自動詞的に「固定」されるとしている。つまり、両者ともに受動態を用いた自動詞的表現がされているのだ。
この英語の表現から「自動詞をそれだけで使うと動作を消去してしまいrowing動作の表現として意味をなさない」という問題の解決策が導かれる。それはすなわち、「動作」と「結果・現象」を分離させ、「動作」はその作為性・仰々しさを抑えながら他動詞で表現し、「結果・現象」は自動詞で表現するというものだ。一つ例を挙げてみると、「ブレードが一枚入るように、手の位置を軽く上げる」といった具合だ。思えば、rowingは身体と水面/水中の間に艇やオールが介在しており、それらが複数の機構により力を伝え、さらに介在する艇やオールに対しても風などの外的要因が作用する。なのだから、理念的にはオールも艇も身体の延長であろうが、動作や技術を考える際にはそれらを切り離してみることも必要なのかもしれない。
結論のようなものは出た。でもしかし言っておこう。日本語は難しい、もとい、言語表現は難しい、と。
3回生舵手 菅井渉太
参考文献
原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』、講談社現代新書、2012年
BRITISH ROWING “Water Rowing Technique”, https://www.britishrowing.org/knowledge/online-learning/techniques-and-training/water-rowing-technique/