こんにちは。生活するための家事をこなし、授業と課題に取り組んでいる大学生です。
さて、日々の生活を送るには活動するためのエネルギーが必要です。家事をするにも、勉強をするにも、部活をするにも、その量は違えどもエネルギーを必要とします。また個人の持つエネルギー量(所有エネルギー)には限りがあり、基本的にその人の所有エネルギーを超えるような活動はできないでしょう。所有エネルギーは体力と同様に、「使えば減るしその最大値も変動しうるもの」と考えています。
ここからは私の話です。
3月、合宿所での宿泊が停止され、ほぼ毎日京都-瀬田間を自転車で往復する日々が始まりました。一日の必要なエネルギー量は「約40km、2時間の自転車での移動」+「練習2時間」+「家事」(+「勉強」)であり、相当なものだったと思います。しかしこれをこなせていたのは2月に毎日練習をしており、かつ練習量も3月の2倍近くあったため、所有エネルギーがそれなりに多くなっていたからです。所有エネルギーが多いから多くの活動をすることができた、という単純な論理です。
4月、部活動は停止され、授業は始まらず、私がするべきことは家事だけになりました。1日に必要なエネルギー量が著しく減少したのです。しかし3月中に増大した所有エネルギーは大きく、私はそのエネルギーを持て余していました。この余分なエネルギーが生活の中の無駄、そして余裕であり、個性をとなりうる経験を生み出す部分であると私は考えています。4月前半、私はお菓子作り、凝った料理、お絵かき、勉強等々、様々な活動に手を出し、充実した日々を送っていました。しかしだんだんとその生活にも疲れ、日々の活動量は減っていきました。強制力のない活動ですから、何もしなくても良いのです。こうして4月後半に私の所有エネルギーは急激に減少しました。運動していないから体力が減ったようなものです。
5月、突如としてオンライン授業が始まり多くの課題が出されるようになりました。所有エネルギーの減っていた私にとっては大変なことです。家事と勉学でエネルギーは枯渇し、他に何かできるような余裕はありませんでした。シンプルかつ無駄のない生活です。余裕のない生活とも言えるでしょう。この生活になると、所有エネルギーはもはや増えません。友人との約束等もないので強制力を持つ義務的な活動は家事と勉学のみであり、生活に必要なエネルギー量と所有エネルギー量はほぼ同値になりました。
晴れて「生活するための家事をこなし、授業と課題に取り組んでいる大学生」になることができました。極めて抽象的な存在です。この状態が8月になろうとしている現在まで続いています。
ところで、自粛生活で他人との関わりが極端に減りました。人間関係の中で固定されていた「他者の中の私」も薄れています。1人の生活は外因的な刺激が非常に少なく、感情の起伏も最小限に抑えられています。とても静かな生活です。
デカルトの言葉に「我思う故に我あり」とある通り、私は思考をしているので存在していることでしょう。しかし、この思考が私の外に出ることはありません。私の生活には個性を生む活動がなく、他者との関係も極めて希薄なのです。つまり、私は存在しているけれど私である必要はなく、生活から「私」がいなくなってしまったのです。
他者との関わりがなく、義務的な活動をこなすだけの毎日を生きる今の私の状態は、「他者との互換性が高い」とも言えるでしょう。生活するための家事をこなし、授業と課題に取り組んでいれば、私でなくとも不都合は生じないのです。
そしてこの「私」が存在せず、感情に起伏のない生活を「穏やかで良い日々」とさえ感じているのです。
もしかしたら、コロナ禍が終了する頃には私は違う何かになっているかもしれません。
そうであっても何ら不都合は生じないのですから。
p.s. 実家の愛犬に会いたーいっ!☆