coxになる選択が正解か否か。この論争は個人の経験と価値観に依りすぎるのであまり意味がないと思います。coxになるか/coxを続けるか悩んでいる人がいたら、周りの人に“coxになるべきか”を聞くのは得策ではないでしょう。与太話程度に話を聞いて、決断の1%くらいにとどめておくのをおすすめします。(聞かれた側は真摯に答えるべきですが……)
とはいえ、ボートに関わる人間であればcoxについてその難しさや辛さを少しでも知っていてほしいものです。ここ数年の京大ボート部ではcoxについての話題をそれなりに耳にするので、少しでもcoxへの理解が深まれば嬉しいな〜〜〜無理かな〜〜〜くらいの気持ちで色々と書いてみます。かなり長いですが読んでいただけたら嬉しいです。
※今回の内容は、大学からボートを始めた人が同じく未経験者の多いボート部で4年間“部活動を全うする”ことに焦点を当てたものです。かなり限定的な話で、coxとしての技量を磨いてボート界でトップを目指すこととは主旨が異なります。個人的にですが、学生の意志決定権が大きい国立大のボート部にはある程度共通する話なのではないかなと考えています。
coxの評価
エルゴや水上タイムトライアルのような、能力を数値として定量化する術が存在しないcoxを評価することは、非常に困難です。これは、漕手がレース時のパフォーマンスを想定して選考されるのとは対照的に、coxはレースまでの練習期間でどれだけクルーを強くできるか、というレースまでの過程を重視されることも影響していると思います。
評価すべき点としては、ラダリングやコーチング、艇長としての能力などが上げられますが、はたして漕手らは全員がそれら全てを正確に評価できるのでしょうか。ボート未経験者が多く、coxの選考にコーチがあまり介入しないようなボート部においては「評価できる」と言い切ることはできないでしょう。(私立の強豪校などはまた別かもしれませんが。)
ではそのようなcoxの技量評価の正確性に欠けるようなボート部において、どのような要素がcoxの評価に影響を与えるのか。抽象的ですがそれは「信頼度」だと考えています。もちろん前述したcoxとしての技量もこの信頼度に大きく関係しますが、それ以外にも、ボート競技へのモチベーションや友好関係、周りからの評価、先入観など、定性も定量も難しい要素が絡んでいます。これがcox評価を曖昧にする原因であり、coxを悩ませる大きな要因でしょう。
もう少し分かりやすく考えたいと思います。「信頼度」とそれっぽく称しましたが、結局のところ「誰と一緒に乗りたいか」という問題です。
【ボート競技へのモチベーション】
必ず練習に参加する人と乗りたい。自分の乗る艇がなくても伴チャしてくれる人と乗りたい。いつもビデオを見て研究している人と乗りたい。エルゴやウェイトも見てくれる人と乗りたい。ボートやボート部への愚痴ばかりの人とは乗りたくない。
【友好関係】
ラフに意見を言い合える人と乗りたい。部活の時間以外でもボートの話ができる人と乗りたい。知らない人と乗るよりか練習が楽しくなるから一緒に乗りたい。人としてあまりにも波長が合わない、コミュニケーションすら疲れるので乗りたくない。
【周りからの評価】
一緒に乗ったことはないが先輩らが評価しているので乗りたい。他の人が文句を言っていたので乗りたくない。
【先入観】
1年前一緒に乗ったときがとても良かった(悪かった)ので乗りたい(乗りたくない)。前に同じクルーである程度の結果を残せたのでまた乗りたい。
これらの判断基準はどれもあって然るべきもので、排除しなければならないものではありません。ただし、本来、これらの判断基準は実測的なcoxの技量とは(ほとんど)無関係に加算されていく付加的な要素です。つまりcoxとしての技量が全く同じ時に、最終手段として加味される基準でしょう。しかし実際は、coxの技量と信頼度を機械的に切り離すことはできず、多くの人が両者を一部混同して評価していると思います。(技量という要素が信頼度に内包されるからこその分別の難しさもありますが。)
私はこの評価基準の曖昧さを排除できるとは考えていませんし、そうしたいとも思いません。ただ、誰しもがこの評価の曖昧さを拭えないということは自覚してほしいと考えています。
この観点から、京大の選考で用いられるcox評価シート(coxとしての様々なスキルを細分化し、コメント込みで数値化するもの)は、coxの技量を“比較的”客観的に評価する機会になるので、coxのフィードバックになるだけでなく漕手にとっても良い機会になると考えています。技量評価も信頼度によって変動する事実は否めませんので、“比較的”という表現にとどめておきます。
たまに“coxとしての評価”と“人としての好き嫌い”を区別できずに、誹謗中傷のような言葉を書く人がいるのでここで注意喚起します。coxないしコーチは評価シートを見て、漕手のボートに対する知見や理解度をある程度測ることができます。タイトルの言葉の通りですね。逆に、coxは評価シートにある言葉がcoxとしての評価なのか否かを区別して受け取る必要があります。評価は真摯に受け止め、そうでない言葉は無視しましょう、精神衛生上重要なことです。
coxの難しさ
coxの難しさや辛さの大半は上述の評価の曖昧さにあると思います。かなりひねくれた言い方をすれば、漕手に好かれれば良いのです、嫌われたらだめなのです。ではどう振る舞えばいいのか、という話は後回しにして、coxの難しさの他の要素について先に話します。
【艇が進まないのはcoxのせいか】
coxは艇を進めることができません、物理的には。しかし間接的に艇速に貢献するのがcoxの大きな役割です。例えば、どうしても艇のリズムを壊してしまうAさんがいるとします。艇速が伸びないのはAさんのせいとしてしまえば簡単な話ですが、coxもその責任の一部を必ず負うことになります。コーチングでしか艇速に貢献できないcoxは、Aさんを上達させることもひとつの役目であり、義務なのです。したがって漕手の技術不足やクルーの不調の責任は、coxに常にのしかかります。思考を放棄したらcoxは終わりです。
もちろん漕手もクルーの一員である限り同様の現象は起きますが、責任の重さではAさん>cox>その他漕手となるのではないでしょうか。たまにクルーメイトの能力不足にキレたり怒ったりする人がいますが、これはクルーメイトを上達させるという責任を放棄して感情をぶつけていることになるので、根絶されるべき事象だと思っています。できるのにやらない人を叱るのはまた別の話です。
【当事者でありながらかつ統治者であり続ける】
これは私の1つ上の先輩である菅井さんが以前ブログで取り上げた話でもありますが、艇長と称されるcoxは艇に乗る当事者でありながらクルーの指揮を執る統治者でもあるのです。(https://kyoto-univ-rowing.com/archives/5912)艇長としての苦しさはその自己言及性に耐えることにある、という主張に私も同意します。詳しい話はここでは割愛するので、ぜひ菅井さんのブログを読んでもらいたいです。
ここでは統治者であることの難しさを簡単に話します。
大学からボートを始めたcoxは、しばしば、より経験豊富な先輩らなどと艇に乗ります。coxとしての経験が浅いうちは艇長としての威厳などあるはずもなく、先輩らに色々と教えてもらう段階です。つまり統治者性は薄く、当事者として練習に臨む側面が大きいです。いずれは統治者としての素養を身につける必要があるのですが、これは誰も教えてくれません。当たり前ですがcoxは他のcoxと乗ることはないので、基本的には自ら考え、試し、学び、成長するしかありません。coxの先輩らに話を聞いたり、練習中の音声を録音してもらうなどの方法はありますが非常に限られた手段です。
そしてcoxとして経験を重ねる中で、先輩らなど自分より経験豊富な漕手に対しても統治者性を発揮しなければならない場面が出てきます。私にとってはそれがcoxの仕事だと理解していても非常に恐れ多いことでしたし、とても苦労した部分でもあります。
この統治者として振る舞うことの精神的ハードルの高さとその振る舞いを学ぶ機会の少なさは、多くのcoxが感じ、苦しむことではないでしょうか。
【艇種の決定】
「1stクルーは4-、2ndは2-、3rdは4+で今年のインカレに臨みます。」あなたが学生生活4年間をボートに捧げたcoxだったら何を思いますか?どれだけcoxとしての技量があっても、それが評価されていても、3rdクルーで最後のインカレに臨むしかないのです。
もちろん逆の場合もあり、2回生等のまだ経験の浅いcoxも、他にcoxがいなければ1stクルーに乗る機会が与えられるかもしれません。
問題は、coxの乗るクルーの序列が、部の方針という干渉できない外的要因に左右されてしまうということです。もちろんcoxの意見を取り入れてもらえる場合もありますが、結局のところ、舵手なし艇にcoxは乗れないのです。
【年功序列問題】
coxは年功序列の形態を示すことが多いです。身体能力に依存せず、ボートの知識や経験が評価されるcoxというポジションでは当然のことではあるかもしれませんが、前述の信頼度という要素も大きく関わってきます。基本的には上位のクルーにいくほど、漕手も先輩らが多くを占めているのです。
4回生になれば最上位coxになりやすいと楽観的に捉えることもできますが、3年間待つ必要があります。加えて、もしかしたら最後のインカレは3rdクルーかもしれません。
もちろん先輩のcoxのシート奪うことは可能です。しかし漕手が先輩のシートを奪うよりは難しいかもしれません
ここで触れたcoxの難しさ/辛さというのは私が約6年で感じたものです。ひねくれていてこじつけに感じる主張に感じるかもしれませんが、主観的なものなのでご容赦ください。どうか、納得はしなくても理解してもらえたら幸いです。
coxとしてどう振る舞うか
話を少し戻します。評価基準の曖昧なcoxというポジションにおいて、どう振る舞うことが有利なのか。私の考えをまとめます。「coxとして有利に働く振る舞い方」なんて聞くと打算的だと思うかもしれません。実際、打算的ではあるのですが、漕手がメンバーレベルを見てスイープのサイドを変更するように、1つの生存戦略だと考えてみてほしいです。
一言にまとめると「ボートの知識と経験を積み、モチベーションをアピールする。」ことだと考えています。知識と経験を積むことが必要条件であることは想像に難くないでしょう。多くの人が実感し、理解していることだと思います。一方で、重要であるにも関わらず忘れられがちなのは、モチベーションをアピールすることです。モチベーションを「維持する」のではなく「アピールする」必要があるのです。
coxの評価基準は曖昧であり信頼度が大きく寄与する、と述べましたが、モチベーションのアピールはその評価体制に適応した行動です。「こういう人と乗りたい/乗りたくない」という例をあげましたが、これに一致するような人物像を周囲に定着させることが信頼獲得への近道なのです。実際にはモチベーションがなくても、とりあえず練習に行き、ビデオを見たり、一緒にコアトレしたり、モチベーションがあると周囲に認識させることが重要です。反対に、モチベーションの低さが露呈してしまったり、本当はモチベーションがあるのに全く伝わらない人は、自然と信頼が損なわれていきます。そして、一度低下した信頼を取り戻すのは不可能に近いことでしょう。
周りからの信頼の大小は、残酷なほどにcox自身も容易に感じ取ることができます。信頼されているcoxは、それが自信となってより統治者性を発揮しやすくなり、またそれが信頼へ繋がる、という好循環に入ります。対照的に、信頼されないcoxは自分の言動に自信を持てなくなり、統治者性を発揮できず、さらに信頼を損なう、という悪循環に入ります。coxの評価が極端になりやすいのはこの好/悪循環が存在するからでしょう。
さて、モチベーションを常に高く維持できる人はごく少数だと思います。多くの人はモチベーションに波があり、その波とうまく付き合いながらボート競技を続けるものです。しかし、coxはこのモチベーションの波を露呈させてはいけません。いつ上記の悪循環に足を取られるか分からないのですから。故に、coxは常にモチベーションをアピールすることが必要になります。
coxは周りからの信頼を損なわないよう、モチベーションがない時も、まるであるかのように振る舞うことが求められます。漕手ら各個人が実際にそれを求めているのではなく、漕手の有する評価基準の曖昧さがその環境を形成しているのです。
もちろん持って生まれた性格など、天性の素質で自然と好循環に入れるcoxもいます。その才能がないと思うのなら、このような打算的な振る舞いが必要になるのではないでしょうか。私もその1人でした。この仕組みに気付くのにかなり時間がかかりましたが……。
4年間の部活動を全うすることが目的であれば、この振る舞いは有効的な手段だと思います。ボート競技を究めることが目的であるのなら、このような打算的かつ小手先の戦略に頼らず、真向勝負でボートと向き合う必要があるでしょう。
おわりに
ここまでcoxの難しさや辛さについて多くを語ったので、アンチcoxと思われるかもしれませんがそうではありません。これだけのことを感じ、考え、葛藤しても、それでもcoxをする楽しさがあるのです。言葉にするときっと陳腐なものになってしまうので、ここに書くのはやめておきます。
漕手をはじめ、ボート競技をする人に知っていてほしいのは、coxは常に「coxである」というプレッシャーと奮闘している、ということです。
私がボートを純粋に楽しめるようになったのは、現役を引退してコーチになってからでした。恥ずかしながら、現役時代はボートもボート部もあまり好きになれず、休部も退部も最後まで何度も考えたほどです。結局はM2まで部に残るほどの私ですが、coxという役職には幾度となく悩まされました。
自分で選んだ道ではあれど、艇長としての恐怖と責任は大きく重くのしかかり続けるのです。
P.S.
最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。
自分でもこんなに長くなるとは思いませんでした。どこかで、coxという役職に対してのモヤモヤが言語化されてすっきりする人がいたら嬉しいものです。
coxという道を選んだ後輩たちを、その後の進退がどうであれ、応援しています。