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舵手復帰、あるいはcoxless-lessな日々

午前4時15分。誰かが合宿所3階の電気をつける。突然の光が、瞼を突き抜けて、私を目覚めさせる。しょうがない、と起き上がり、買ったばかりのイヤホンを耳に詰め込む。Spotifyを起動して「藤原さくら」をシャッフル再生する。

 午前4時25分。一階に降り、トイレへ。レインウェアを着たら艇庫に向かい、オールを2本ずつ出す。2往復。艇庫の裏のコンビニに行く。オーナーのH市さんはペットボトル1本でも有無を言わさず袋に入れてくる。袋に手を伸ばそうとしたのを見て取って、こちらから袋はいりませんと言わなければならない。短いタイミングを逃してはいけない、慎重さと大胆さが求められる仕事だ。

 これがこの頃の私の朝の行動だ。この後にミーティングをして、乗艇練習をする。このようなのをルーティンと言うらしい。最近、YouTubeのアルゴリズムが「しがないOLの朝のルーティン」といったものを私に見させようとしてくる。しかし、そんなものは見たくないので、「興味なし」をクリックしてアルゴリズムに私の興味を教えてやる。そうしようとするのだが、「興味なし」をクリックするとYouTubeはその理由を聞いてくるので、何だか突き放したくなって、その時点でいつもアプリを閉じてしまう。というわけで、今日も私のスマホのYouTubeアプリは知らない女性のルーティンを私に見せようとしてくる。

 思えば、毎日朝起きてオールを出すのはどれほどぶりになるだろう。インカレで無しフォアとして出漕するクルーが付きフォアで関西選手権に出るために舵手を務めた7月中旬以来だ。そのときの練習期間は2週間程度で、その前に舵手をしていたのは5月上旬までであって、今シーズンは船に乗っていない期間のほうが長い。

悲しいかな、仕事を失った舵手というのは、することが本当に何も与えられない。大概の場合、ボート部にいれば何をすればいいかは誰が決めてくれる。どうすればいいか、は考えなければならないとしても。舵手も漕手と同じくどれか一つのクルーに属し、毎朝練習する。しかし、選考に漏れたとなると話は変わってくる。コーチや幹部から役割をあてがわれることもない。何をするか、から考えなければならないのだ。そこで私が今シーズンに実行したことは大きく分けて二つある。一つは新人チームの補助、もう一つはインカレクルーのコーチである。

当然ながら、新人はrowingについて何も知らない。それだけに、それだからこそ、彼らの疑問は思わずして本質を衝いたものになることもしばしばである。ある程度の共通理解が成立していると双方が信じている場合には―ほんとうにそれが存在するのかは怪しいことも多いのだが―追究せずに済ましてしまうことを、彼らは素朴に疑問に思い、質問してくる。そこで私には、本質に立ち返ってものを考えることを求められる。そしてさらに、曖昧なボート用語で片付けずに、一般的な語彙を用いて平易な表現で説明しなければならない。私が彼らの質問に十分に回答できたとは思わない。むしろ、私に考える機会を与えてくれた彼らに感謝したい。

自分の言ったことを素直に受け入れてくれることはうれしいことであるが、同時に怖いことでもある。こう思ったのは、インカレM2Xのコーチをしていたときのことだ。クルーの2人は回艇のたびにコメントを求めてくれて、この認識は自意識過剰なのかもしれないけれど、さらにミーティングでは僕の一言で方針を決めてくれたりする。彼らが私の言うことを素直に受けて入れてくれればくれるほど、自分の言葉が彼らをどこか誤った方向へ連れていているのではないかという不安・怖さが去来した。COXをしていたときには全くないこともないが、あまり感じたことのない感情だった。実質的にコーチに対するコーチはいないということが直接的な理由だろうし、責任はあるにせよ仕事量のうえで余裕が生まれたことも関係しているかもしれない。

 ただし、次のようにも考えられる。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、家政術(オイコノミア)を論ずるところ、その家政術を操舵術と類比的に捉えたという。家政術とは、家の主人が家族や奴隷を含む家財をやりくりして家を運営・統治する術のことである。対して、神による宇宙の統治は軍隊の階層秩序に比された。両者の違いとは何か。それはすなわち、前者(家政術=操舵術)では統治主体が被統治主体に内在するのに対し、後者(神による宇宙の統治=軍隊秩序)では統治主体は被統治主体に外在しメタ的な位置を占めているということだ。この構図を当てはめれば、COXはその名の通り前者でありコーチは後者と言える。したがってCOXは当事者でありながら「主人」であらねばならず、その自己言及性に耐えながら「船内に配置された船員たちに指令をだしつつ、自ら舵を取って船を進め」なければならないのだ。しかしこれまで私はその当事者性に甘えて、「主人」たる責任から逃げていたのかもしれない。そうすることで不安・怖さから逃れていたのかもしれない。その当事者性を活かしつつ「主人」たる責任を引き受けられる、そんなCOXをめざしたい。

3回生舵手 菅井渉太

参考文献

佐々木雄大「〈エコノミー〉の概念史概説」、『ニュクス』創刊号、堀之内出版、2015年所収

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「舵手復帰、あるいはcoxless-lessな日々」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: coxを評価する時、coxもまた漕手を評価しているのだ - KYOTO UNIV. ROWING CLUB

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